春の国の呪い
雪那の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
苦しげに上下していた胸の動きが緩やかになり、額に浮かんでいた脂汗も薄れていく。
冬竜王は寝台の傍らに立ったまま、その様子を見つめていた。
そして、結界を張り終えた秋叡王へ視線を向ける。
「おい、翁。説明しろ。雪那に何が起きている」
紅い双眸が真っ直ぐ秋叡王を射抜く。秋叡王は深くため息を吐いた。
そして近くの椅子へ腰を下ろす。杖を膝の前へ立て、その上で両手を組んだ。
「人間の業の深さは恐ろしいわい。お前が今まで人間に深入りしなかったのは、賢明な判断じゃったな」
冬竜王は何も言わない。ただ続きを促すように睨み据える。秋叡王は飄々とした様子で肩を竦めた。
「まず結論から言う、その王石の欠片は、今も春の国にある本体と繋がっておる。春の国は、その繋がりを利用しておった」
秋叡王は黒く濁った王石を見た。白く透けるような肌に、異質に輝くその石は、今は脈動を止めていた。
「本体の王石を通して、この娘へ呪詛を流し込んでおったんじゃ」
静寂。その言葉の意味を理解した瞬間、冬竜王は怒りで目の前が真っ赤に染まった。
ごうっ、と。風もない部屋の中で黒髪が舞い上がる。空気が軋み、部屋の温度が一気に下がった。
壁が悲鳴を上げるように震え始める。
「やめんか。わしの宮殿を吹き飛ばすつもりか」
ゴッ!!という鈍い音と共に、秋叡王が振りかぶった杖が冬竜王の頭へ落ちた。流石の冬竜王も僅かに顔を顰める。
「落ち着け阿呆。怒るのは後にしろ」
秋叡王は鼻を鳴らした。冬竜王は舌打ちするが、荒れ狂っていた力は収まった。
「とりあえず結界で繋がりは断った。体に残った呪詛も儂が解術してやろう」
そう言って先程描いた陣へ視線を向ける。冬竜王の肩から僅かに力が抜けた。だが。
「じゃがな。問題はそこじゃない」
秋叡王の声が低くなる。寝台でこんこんと眠る雪那を、ただ静かに見つめる。
「この欠片は本体へ帰ろうとしておる」
「帰る?」
「元々は一つの王石だったものじゃ。春の国の王石は、今も娘の王石を呼び続けておる」
冬竜王の表情が険しくなる。寝台に広がった絹のような銀髪が、夕暮れに照らされて黄金色に染まる。
「呪詛は切れる。じゃが共鳴は止まらん。娘の身体の中で、この欠片は本体へ戻ろうとしておる。だから暴走した。今は結界で一時的に共鳴しないよう遮っているだけじゃ」
「何故、今さら。春の国から連れてきて暫く経つが、今までそんな様子は見られなかった」
「……狂化で傷ついた炎坊と、お前の怪我を治癒したのはこの娘だと聞いた。その後も何度か使ったか?」
秋叡王は何かを確認するように冬竜王を見つめる。静かな森のような深々とした瞳が、答えを探るように細まる。
「……あぁ。それに何の関係がある」
「その欠片は、人間を治癒するだけなら問題ない。だが、お前達を治すために王石の力を限界まで引き出した。しかも一度ではない。足りぬ力を、何度も本体から無理矢理引き寄せたんじゃ。お前らのような馬鹿ほど力を持った王を治すのは、本来なら人間には不可能だ」
冬竜王は切れ長な瞳を見開いた。熱に浮かされ、苦しみ続けた原因は、自分にあるのか。冬竜王が、自身を顧みない戦いをしたせいで。
雪那の命を削ったのは、他でもない。冬竜王を生かすためだったのか。
「……人間には過ぎたる力よ」
秋叡王のその声には僅かな哀れみが混じっていた。王石を埋め込むなど、そんな残虐な真似は、冬竜王より長く生きる秋叡王でさえ、聞いたことがない。
それだけで、雪那が春の国でどんな風に扱われてきたのか、痛いほど理解できた。
「なら、どうすればいい。欠片を取り出せばいいのか」
「……無理じゃ。分かっているだろう」
秋叡王は首を横へ振った。雪那に王石が埋め込まれていると知ったあの時に、冬竜王も同じ答えに辿り着いていた。
けれど。目の前の賢者ならば、違う答えを差し出してくるのではないかと。
「もう同化しておる。この欠片は娘の命そのものと絡み合ってしまった。今さら引き剥がせば、娘も死ぬ」
部屋が静まり返る。長い沈黙が、部屋に影を落とす。やがて、冬竜王がゆっくり口を開いた。
「春の国の連中を皆殺しにしてしまえばいいだろう。生かしておく価値があるか」
怒りに支配された紅い双眸が燃えている。今すぐにでも春の国を滅ぼしに行きそうな目だった。
秋叡王は黙って聞いていた。
「雪那の命は、雪那自身のものだ」
冬竜王が雪那の手を強く握り締める。こんな細い体で、どれほどの苦痛に耐えていた。
それなのにまだ、春の国は雪那を利用しようというのか。今度こそ、その命まで貪るつもりだ。
「こんな石のものでも、ましてや、春の国の連中のものでもない」
それはあの日、雪那を生かすために伝えた言葉だった。その言葉が、冬竜王の胸に重くのしかかる。
沈黙が落ちた。秋叡王は冬竜王を見る。この男を、何百年も知っている。
誰より強く、誰より孤独で、誰より人間を嫌い、人間を避け、興味すら示さなかった冬竜王を。その冬竜王が、今はその娘の手を離そうとしない。
まるで、失えば自分も壊れてしまうとでもいうように。
「……なるほどのう」
ようやく理解した。何故この男が、国境を越え、頭を下げ、助けろと口にしたのか。
そして、何故ここまで必死なのかを。
秋叡王は雪那を見て、そして冬竜王を見る。その瞳の奥に、ほんの僅かな苦笑を浮かべながら。
「さて、面倒なことになったわい」
杖を掴み、ゆっくり立ち上がる。その口振りとは反対に、秋叡王は深い皺だらけの顔に、不敵な笑みを浮かべた。
その老いた瞳にはまだ諦めはなかった。




