自覚
弾かれた指が、じん、と熱を持った。
乾いた音だけが、静かな部屋に嫌に大きく響いている。
雪那を見ようともしないその横顔が、酷く遠かった。
今朝まで、同じ寝台で眠っていたはずなのに。腕の中へ抱き寄せてくれていたはずなのに。
雪那の胸がざわりと揺れる。
何か、してしまっただろうか。馴れ馴れしかっただろうか。気に障ることを言っただろうか。庭へ出たいなんて我儘を言ったからだろうか。
分からない。分からないことが、怖かった。
嫌われたのだろうか。もう必要ないのだろうか。そんな考えが頭の中を埋め尽くしていく。
一方で冬竜王も、自分自身に苛立っていた。
眠れるようになった。それは本来なら喜ぶべきことだ。何百年も求め続けたものを手に入れた。
なのに、その事実が、妙に胸につかえていた。
雪那に触れられると安らぐ。雪那が隣にいれば眠れる。
王として揺るぎないはずの自分が、誰より強くあるべき自分が、こんな脆弱な人間に依存しているようで。
認めたくなかった。認めれば何かが壊れてしまいそうだった。
自分でも分かっている。これはただの八つ当たりだった。
けれど。
「触れるな」
口が勝手に動いていた。その冷たい拒絶に、ひゅっ、と雪那が息を呑む。
何をやっている。己の弱さを棚に上げて。何を傷付けている。これでは、醜いと見下してきた人間と、何も変わらない。
冬竜王は、深くため息をつき、己の感情を落ち着かせ、雪那を見て、息を止めた。
思っていた顔ではなかった。困ったように笑っていると思った。少し悲しそうにしている程度だと思った。
灰色の瞳が、溶け出しそうだった。今にも壊れそうなほど。
「も、申し訳ございません……」
雪那が、深く、深く頭を下げる。震える声だった。
「出過ぎた真似を……」
まるで捨てられた子どものようだった。
冬竜王の胸が嫌な音を立てる。ざわざわと本能が騒ぎ始める。
違う。そうじゃない。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
雪那が震える足で、一歩下がり、そのまま距離を取ろうとした。
その瞬間、冬竜王は反射的にその細い腕を掴んでいた。
細い身体がびくりと震える。顔を上げた雪那の瞳から、ぽろり、と。大粒の涙が零れ落ちた。
「あ……」
雪那自身も驚いたような顔をした。慌てて口元を押さえ、必死に涙を止めようとする。
けれど一度溢れた涙は止まらない。ぽろぽろと頬を伝う。
「ひっ……ッも、申し訳ございませっ…」
華奢な肩が揺れる。
「っぅ、申し訳……ございません……」
泣きながら、震えながら、それでも謝る。
その姿を見て、冬竜王はようやく理解した。
自分が、雪那を傷付けたのだと。
目の前の雪那は、今にも壊れそうだった。
細い肩を震わせて、息も上手く吸えなくなって、まるで世界の終わりみたいな顔をしている。
その原因が自分だった。冬竜王は迷わず雪那を引き寄せた。
雪那の身体が大きく揺れる。冬竜王は、泣きじゃくる身体を覆い隠すように抱き締めた。
誰にも傷付けられないように。
――自分自身からも守るように。
「許せ」
雪那が震える。
「お前は悪くない」
背中を撫でる。何度も。何度も。
「雪那、許せ」
腕の中で雪那が息を呑む。
その言葉に、雪那が恐る恐る顔を上げた。
涙で濡れた灰色の瞳。その瞳の奥にあるのは、深い喪失への恐怖だった。
冬竜王に拒絶されたら、雪那は生きていけない。その事実を、冬竜王は知ってしまった。
そして、それは自分も同じだった。
雪那がいなければ眠れないからではない。きっと、そんな理由だけではない。
もっと前から、もっと深いところで、もう手放せなくなっていた。
朝、目覚めた時に隣にいてほしい。夜、眠る時に隣にいてほしい。
笑っていてほしい。泣いてほしくない。傷付いてほしくない。腕の中の温もりを失いたくない。
雪那がしゃくり上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すように冬竜王の胸へ額を押し付ける。
その姿が痛々しくて、愛おしくて。
冬竜王は諦めたように目を閉じた。
そして、ようやく認める。自分は、もう雪那を手放すことなど出来ないのだと。
「泣かないでくれ」
少しだけ身体を離し、頬を流れる涙を親指で拭う。
その武骨な手が、見下ろす紅い瞳が、雪那を拒絶していないと、やっと実感できて、更に涙が溢れる。
「わた、し…私、何か……」
「していない。お前を傷つけるつもりはなかった」
自分の弱さを受け入れきれず、ただそばにいたいと寄り添ってくれた雪那を傷付けた。
「そばに、いても……いいんですか?」
「あぁ。お前がいい」
手放せないと、気付いてしまえば、もう駄目だった。自分に縋り付くように涙を流す姿さえ、冬竜王の胸を甘く満たしてしまう。
こんな怪物に愛されて、可哀想に。
本来なら、もっと穏やかで、もっと優しい誰かの元にいる方が雪那は幸せかもしれない。
けれど、自分のためだけに与えられた温もりを、手放せるはずがなかった。
冬竜王は雪那を抱き締める。
泣きじゃくる身体を閉じ込めるように。
――もう、逃してやれない。




