空っぽの巫女
冬竜王は頬杖をついたまま、雪那の内側を探るように燃えるような紅い瞳を細めた。
「春の国は、お前を随分うまく使っていたようだな」
雪那は膝の上へ静かに手を重ねたまま、顔を上げた。その拍子に肩から絹のような銀髪が滑り落ちる。
「人間しか通れぬ結界。そこへ“何でも治せる奇跡”を置けば、人間どもは勝手に集まる」
手元の盃を傾けながら、語られるその声音には、侮蔑も呆れも混じっていた。
「病も怪我も、金さえ払えば治る。妖魔を恐れて閉ざした国のくせに、外から来る人間だけは拒まなかったわけだ」
雪那は黙って聞いていた。春の国の城。長い回廊に、絶えず並ぶ患者たち。泣きながら感謝を口にする者。莫大な金貨を抱えて現れる貴族たち。
毎日、毎日、終わることなく人が来た。結界に守られた安全な国。奇跡の治癒術式を持つ巫女として、ただ、使い潰されてきた毎日。
「結界がある限り、他の妖魔も手を出せなかった。だが、お前を差し出し、結界も壊れた今……あの国がどうなるか、見ものだな」
冬竜王の口角が、愉快そうに吊り上がる。雪那の伏せた睫毛が、わずかに揺れた。
「俺が手を出さずとも、他の妖魔どもが黙っている保証はない。あれだけ人間を囲っていた国だ。良い餌場になるだろう」
吹雪が窓を叩く。静かな部屋の中で、その言葉だけが鮮明に響いた。
「心が痛むか?」
雪那の反応を見るかのような、妙に優しい声色だった。目の前の怪物が、トドメを刺すようにに紅い瞳を三日月のように細める。
「お前を切り捨てた国でも」
雪那は、何かを思い出したように口を開きかけて、静かに首を横へ振った。
「……いいえ。あの国に、私の未練はありませんので」
その声は、驚くほど穏やかだった。そう言って、小さく笑う。強がりには見えなかった。
泣きもしない。怒りもしない。錯乱するわけでも、恐怖に震えるわけでもない。ただ、本当に空っぽになってしまった人間みたいな笑みだった。
冬竜王の片眉が、僅かに上がる。揺さぶってやるつもりだった。故郷を失った絶望を、自分を捨てた国への未練を。攫われた恐怖を。
この反応は異常だ。冬竜王の前に立つだけで、泣き叫び、恐怖で半端狂ったように外へ飛び出して行った人間達と、何が違うというのか。
まるで、冬竜王に差し出される前から、とっくに全部失っているみたいに、静かだった。
「お前、あの国でどうやって過ごしてきた?」
「……ただ、治していました。ずっと。ずっと」
雪那は冬竜王の炎のように揺らぐ瞳を真っ直ぐに見つめた。雪那にとって永遠のような終わりのない日々が、ようやく明けたのだと思った。
「私から、一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ」
「なぜ、術師を?」
冬竜王が、術師を必要とするようにはどうしても見えなかった。ここまでの圧倒的な力がありながら、術師に、雪那に何を望むのだろう。
冬竜王は徐に卓の上に置いてあった盃を傾け、一口で酒を煽る。
「……興味本位だ。まさか治癒術式を使える人間が出てくるとは、思っていなかったがな」
何となく、その言葉が全てではない気をした。けれど、その奥に踏み込む言葉を、雪那はまだ知らなかった。
「今日はもう終いだ。この部屋はくれてやる。好きに使え」
「え?」
「白狐はお前に付ける。何かあれば白狐に言うんだな」
雪那の言葉を待たず、冬竜王は立ち上がり部屋を出て行く。嵐のように去る冬竜王の姿が見えなくなり、扉が閉じた。
雪那は知らず知らずのうちに浅くなった呼吸を静かに整える。重ねていた手には、ぐっしょりと汗をかいていた。
ずっと、部屋に入った瞬間から、本能が告げる恐怖を、必死に奥へ押し沈めていた。冬竜王の前で、平静を保つことが、どれだけ難しいか、雪那は身をもって思い知った。
そして、これから続く毎日が、どうなるのか、想像もつかないまま、疲労感に包まれた身体を寝台に預け、深い眠りについた。
背後で扉が閉じる。
重厚な音が石造りの廊下へ低く響き、部屋の前に控えていた白狐が静かに頭を垂れた。冬竜王は足を止めることなく、低く告げた。
「あの娘につけ」
「畏まりました」
広い廊下には、等間隔に魔石灯が吊るされていた。冬竜王が通るたび、青白い灯火が怯えるように揺れる。
かつ、かつ、と重い靴音が静寂を裂いた。廊下の両脇に控えていた兵たちが、一斉に背筋を伸ばす。
誰一人として視線を合わせようとはしない。この城に仕える妖魔達にとってさえ、冬竜王は“畏怖”そのものだった。下手に目を合わせれば、その紅い瞳に魂ごと射抜かれる気がする。
だが、冬竜王は周囲など気にも留めず、ただ真っ直ぐ前だけを見据えて歩いていく。
やがて、自室の巨大な扉が開かれた。冷気の満ちた薄暗い室内へ入ると、背後で静かに扉が閉じる。
ようやく一人になった空間で、冬竜王はゆっくり息を吐いた。
脳裏に浮かぶのは、今日拾ってきたあの娘の顔だった。
『……あの国に、私の未練はありませんので』
そう言って笑った、静かな顔。春の国で、冬竜王の手に縋り付いてまで逃げ出そうとした理由。
冬竜王は玉座代わりの長椅子へ腰を下ろし、瓶に入っていた酒にそのまま口をつける。
普通の人間なら、自分を前にした時点で壊れる。泣き叫び、命乞いをし、許しを請う。それなのに、あの娘は違った。
恐怖を押し殺しているのは分かる。あの細い指先は汗ばんでいたし、呼吸も浅かった。それでも、逃げなかった。
まるで、逃げる場所など最初から存在しないみたいに。
紅い瞳が、ゆっくり細められる。
面白い。恐怖に逆らう人間など、大抵どこか壊れている。けれど、まだ完全には砕けていない。
ならば、あの空っぽの内側へ、何を流し込めばどう変わるのか、試してみたくなる。
冬竜王は喉の奥で低く笑った。
「……良い暇潰しが出来そうだ」
猛禽のように鋭い紅眼が、愉しげに歪んだ。




