凍土の王
吹雪を裂きながら飛来した巨大な影が、城の外郭へ降り立つ。
轟、と、石造りの広い露台が震え、積もっていた雪が舞い上がった。
冬竜王は雪那を抱えたまま、ゆっくりと翼を畳む。夜そのものみたいな巨大な翼は、黒い霧のような粒子を散らしながら消えていった。
そこは、王城のような華やかさとは違っていた。
黒曜石みたいな冷たい石壁。氷柱の垂れ下がる柱。白銀の雪景色。空には妖魔たちの影が飛び交い、遠くで獣の遠吠えが響いている。
「お帰りなさいませ、主様」
低く頭を垂れる声が並ぶ。露台の奥には、既に何人もの妖魔たちが整列していた。
角を持つ男。獣耳を揺らす女。人の形をしていても、瞳の色や纏う気配が明らかに異質な者たち。
彼らの視線が、一斉に雪那へ向く。
「……人間?術者か」
「主様が?」
「珍しいこともあるものだな」
臣下たちは頭を上げ、雪那を遠慮なく見つめる。冬竜王はそんな視線など気にも留めず、雪那を床へ降ろした。
途端に、膝から力が抜ける。
「……っ」
冷たい石床へ、ぺたりと座り込んだ。感覚がない。指先も、足先も、自分のものではないみたいだった。
雪の中を長時間飛ばされたせいで、衣服は水を吸って重くなり、肌へ張り付いている。白かった頬はすっかり青ざめ、唇も小刻みに震えていた。
対照的に、冬竜王も周囲の妖魔たちも平然としている。厚着をしているわけでもない。冬竜王に至っては、黒い羽織を引っ掛けているだけだ。それなのに寒そうな様子は一切ない。
生き物としての違いを、突きつけられる。冬竜王が座り込む雪那を見下ろし、鼻で笑った。
「まずは風呂か。このままだと死にそうだからな。白狐」
「はい」
一人の女が前へ進み出た。肩口で切り揃えられた黒髪。切れ長の目元は涼やかで、すらりとした長身の美女だった。
冬竜王は顎で雪那を示す。
「風呂へ連れて行け」
「かしこまりました」
白狐は柔らかく微笑むと、そのまま難なく雪那を抱き上げた。
「……え」
驚くほど軽々と。まるで子供でも抱えるみたいに。細腕にしか見えないのに、雪那の身体はびくともしない。
やはり、この人も妖魔なのだろうか。そう思ったけれど、震える唇では何も聞けなかった。
白狐は雪那を抱えたまま、長い廊下を歩いていく。
「すぐ着きますからね」
優しい声音だった。雪那は小さく、こくりと頷く。
通されたのは、巨大な浴室だった。
白い湯気が立ち込め、白濁した湯が広い浴槽に満ちている。壁面には氷の結晶みたいな彫刻が施され、天井は高く、湯気の向こうにぼんやり霞んでいた。
白狐は躊躇なく、雪那を服のまま湯へ浸ける。
「……っ、あ……」
熱が刺さる。冷え切った身体が、じわりと痛みを訴えた。
「まずは身体を温めることを優先しましたので、そのまま失礼します。私は一度外しますので、服は脱いでくださいね。温まったら出てきてください」
白狐は手際良く説明し、静かに浴室を出て行った。扉が閉まり、しん、と静寂が落ちた。
雪那はしばらく動けなかった。湯が冷え切った身体へゆっくり熱を戻していく。凍えて感覚を失っていた指先が、じんじん痛む。
やがて重く張り付いていた服を脱ぎ捨て、そっと肩まで湯へ沈む。
「……」
まだ、理解が追いついていない。ほんの数時間前まで、自分は春の国にいたはずなのに。結界が壊れて。冬竜王が現れて。国に捨てられて。気付けば、人外の城にいる。
唯一分かるのは、もう、自分には帰る場所がないということだけだった。
しばらくして浴室を出ると、白狐が脱衣場で待っていた。
「温まりましたか?」
差し出された柔らかな布で身体を拭き、新しい服へ袖を通す。白い生地に、淡い銀糸の刺繍が施された衣だった。
ゆったりとした長袖に、重ね布の多い柔らかな仕立て。人間用に作られたのか、身体へ不思議と馴染む。その上から、ふわりと白い毛皮の羽織を肩へ掛けられた。
「人間には、この城は寒いでしょう。これを」
毛皮は驚くほど軽く、そして暖かかった。雪那はそっと羽織を掴む。
「あの……この服は……?」
すると白狐は、少し気まずそうに視線を逸らした。
その前に、濡れた雪那の髪へふっと息を吹きかける。柔らかな風が巻き起こり、銀髪から水分をさらっていく。
「……!」
こんな風に術を使うのか。驚く雪那へ、白狐は苦笑した。
「これは、その……冬竜王様の元へ連れて来られた女性たちが、着の身着のまま逃げていくものですから……残っておりまして」
「……ああ」
雪那は納得した。自分だけではないのだ。冬竜王に攫われた人間は。
「お身体は問題ありませんか? 大丈夫でしたら、そのまま主様のところへ参りましょう」
「……はい」
城の中は静かだった。高い天井。長い廊下。窓の外には、しんしんと雪が降り積もっている。
すれ違うのは、獣人や妖魔ばかりだった。狼の尾を揺らす男。大きな角を持つ女。黒い翼を畳んだ青年。誰もが雪那を珍しそうに見ていく。
本当に、春の国を出たのだと実感する。雪那は隣を歩く白狐を見上げた。
「……白狐さまは、妖魔なのですか?」
「白狐で構いませんわ、雪那様」
涼やかな目元を緩めた白狐は、ニコリと微笑む。
「えぇ。妖狐ですわ」
その笑みは穏やかなのに、人ではない何かの気配を確かに感じさせた。
やがて、巨大な扉の前で、白狐が足を止める。
「着きました」
細い腕で、重そうな扉を軽々と押し開けた。ギィ、と重い音が響く。
薄暗い室内。奥には大きな椅子があり、そこへ深く腰掛けた冬竜王が、頬杖をついたままこちらを見ていた。紅い瞳が、ゆっくり雪那を捉える。
「来たか」
白狐は扉の前で控え、雪那はそのまま部屋の中に進み、冬竜王の前の椅子に腰掛ける。
「顔色は戻ったようだな」
「はい。ありがとうございます」
部屋の中は驚くほど簡素だった。広い室内には、巨大な寝台と長椅子、重厚な机が置かれているだけ。壁には装飾の類もなく、冷たい石材が剥き出しになっている。
人の王族の部屋のような豪奢さはない。ただ、巨大な獣が棲む巣のような静かな威圧感だけがある。
冬竜王は椅子へ深く腰掛けたまま、紅い瞳で雪那を見下ろしていた。そして頬杖をついたまま、ゆっくり口角を吊り上げる。
「逃げても構わんぞ」
「……え?」
「泣き喚いて、逃げ出してもいい。他の人間のようにな」
雪那は、はっと息を呑む。脳裏に、先ほど白狐から渡された衣服が浮かんだ。
『――冬竜王様の元へ連れて来られた女性たちが、着の身着のまま逃げていくものですから』
つまり、この城から逃げ出した人間がいたのだ。あの服の持ち主たちは、きっと恐怖に耐えきれなかったのだろう。
雪那は窓の外を見る。激しい吹雪と、果ての見えない雪山。空を飛ぶ妖魔たち。雪原を歩く巨大な獣の影。
あんな場所へ、それでも飛び出していったのだ。冬竜王から逃げるために。生き延びられる保証など、どこにもないのに。
「……」
雪那は視線を落とした。同じように、攫われたのかは分からない。けれど、怖かったのだろう。怪物の城へ閉じ込められて。人外に囲まれて。
けれど、雪那は静かに首を横へ振った。
「いいえ。他に、帰るところはございません」
逃げようとしたのは、きっと帰れる場所がある者たちだ。
春の国に、自分の居場所は、もうない。必要だったのは、“治癒術式を使える者”としての自分だけ。
あの国は雪那を切り捨てた。ならば、もう戻る場所などない。
静寂が落ちる。吹雪の音だけが、遠く響いていた。
冬竜王が、ふっと喉の奥で笑う。それは嘲笑にも、愉悦にも聞こえる声だった。




