白銀の生贄
雪那の震える指先が、差し出された大きな手に触れる。
冬竜王の手は、ゾッとするほど冷たかった。凍てついた氷のようで、人の温もりを感じさせない。
けれど、今の雪那には、その冷たさの方がずっと楽だった。
春の国の人間たちの視線より。見て見ぬ振りをする沈黙より。自分を切り捨てた空気より。
その冷たさの方が、よほど優しかった。
冬竜王が、ゆっくりと雪那の手を握る。大きな手だった。少しでも抵抗すれば、骨ごと砕けそうなほど強い手。
そのまま軽々と腕を引かれ、雪那の身体が浮く。
「……っ」
次の瞬間。片腕だけで抱き上げられた。まるで幼児でも抱えるみたいに簡単に。雪那の身体が、冬竜王の胸元へ引き寄せられる。
恐怖で息を呑む声が、王の間のあちこちから漏れた。
そして、バサッと。
冬竜王の背中から、巨大な翼が広がる。夜空を溶かし込んだ、闇そのものみたいな翼だった。
空気を震わせる巨大な翼膜。鋭い鉤爪。吹雪を纏う羽。
王の間の燭台が、一瞬で吹き消える。
「……竜……」
誰かが呆然と呟いた。その姿は、もはや人などではなかった。災厄そのもの。
冬竜王は、震え上がる人間たちを見下ろし、口角を吊り上げる。
「取引は成立だ」
赤い瞳が細められる。
「この女、貰っていくぞ」
次の瞬間。轟音と共に巨大な翼が打ち払われる。暴風が王の間を薙ぎ払った。
悲鳴。砕け散る窓。風圧で倒れる人々。
そして、冬竜王は、そのまま天井を薙ぎ払い、上空へと舞い上がる。
凄まじい破壊音と共に、王城の天井が崩落する。吹雪が雪那の頬を叩いた。
「……っ」
浮遊感。一気に身体が引き上げられる。冬竜王は雪那を抱えたまま、空へ舞い上がっていた。
遥か下。崩れた王城。悲鳴を上げる人々。雪に埋もれていく春の国。
空を覆う妖魔たちが、一斉に咆哮を上げた。ぞっとするほど歓喜に満ちた声だった。空を覆っていた妖魔たちが、冬竜王に続けとばかりに後ろに追従する。
まるで王を迎える軍勢。冬竜王が翼を広げるたび、空気が裂ける。
速い。あまりにも速すぎる。雪那は息もできず、ただ冬竜王の衣を掴むことしかできなかった。
「……は、ぁ……」
寒い。怖い。なのに、涙は出なかった。もう全部、どこか遠くへ置いてきてしまったみたいだった。
しばらく飛び続けた後。冬竜王が、ふと腕の中で震える雪那に視線を落とす。
「静かだな」
雪那は答えられない。風圧で目も開けていられないし、口を開くのも難しい。術で何とか身体を強化しているが、寒さで凍え死にそうだった。冬竜王はクツクツと喉の奥で笑う。
「泣き叫ぶかと思ったが」
「……」
雪那は何も答えられず俯いたまま、小さく唇を噛んだ。すると、ぐい、と顎を鷲掴まれる。
無理矢理、顔を上げさせられた。血のように紅い瞳が、真正面から雪那を覗き込む。
「壊れたか?」
「……」
「それとも最初から空っぽだったか?」
その言葉に、冬竜王にしがみつく雪那の指先が震える。冬竜王は、それを見逃さなかった。
「なるほど。ちゃんと傷付いてはいるらしい」
愉快さを隠さない嗤い声。見透かされるのが嫌だった。この男は、人の傷を見るのが好きなのだ。
踏み潰して。抉って。壊れる瞬間を眺めるのが好きな怪物。
やがて、吹雪の向こうに、巨大な影が見えてくる。山脈だった。
白銀の世界。凍った大地。尖塔みたいな氷山。空には妖魔が飛び交い、巨大な獣が雪原を歩いている。
そこはもう、人間だけの国ではなかった。
冬の国。人外たちの領域。
「怖いか?」
「……はい。ですが、帰る場所も、もうありません」
「ふ、ようやく話せるようになったか」
意地悪く囁かれる。そして冬竜王は、遥か先にそびえる巨大な黒い城を見上げた。
吹雪の中心。氷雪に閉ざされた、怪物の城。
「歓迎しよう。春の国の術師よ」




