長い夜の果てに
頬に触れた熱に、冬竜王は動きを止めた。
ほんの僅かな接触。けれど、それはあまりにも異質だった。
血の匂いが充満する部屋の中で、雪那の指先だけがひどく温かい。
紅い瞳が揺れる。
今、目の前の脆弱な人間は何と言った。そばにいたい、と。どこまでも一緒にいる、と。
理解できなかった。何百年。何千年。その長い時間の中で、こんな風に触れられたことは一度もない。
恐怖でも、打算でも、哀れみでもなく。ただ、冬竜王自身を求めて、自分の傍にいたいと、そんな存在がいるなど。
「……何故だ。何故、そこまでする」
掠れた声が落ちる。紅い瞳が雪那を射抜く。まるで答えを求めるように。
「俺は、お前に何も与えていない」
雪那は小さく目を瞬いた。そして、花が綻ぶようにふわりと笑う。
「そんなことありません」
冬竜王の眉が僅かに寄る。雪那は与えてもらったものを数えるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「春の国から、連れ出してくれました。名前を呼んでくれました。守ってくれました。本をくれました。私に、世界を見せてくれました」
冬竜王が意図していたかどうかなど、関係なかった。雪那にとっては、それだけで十分だった。
灰色の瞳が真っ直ぐ冬竜王を捉える。
「だから、私は冬竜王様がいい」
ゆっくりと、冬竜王の腕が伸びてくる。雪那は動かない。逃げない。今度こそ殺されるかもしれない。それでも、目を逸らしたくなかった。
濃い血の匂いと、熱が近付く。冬竜王の指が雪那の顎を掴んだ。
逃げられないように、視線を逸らせないように、強引に顔を上げさせる。
紅い瞳と灰色の瞳が絡み合う。吐息が触れそうなほど近い距離で。
「お前は、俺が怖くないのか」
「……怖いです」
けれど、と雪那は続けた。
「今の冬竜王様は、私よりずっと苦しそうで、そばにいたいと思いました」
本能は叫んでいる。逃げろ、近付くな、と。目の前にいるのは、人ではない。国を滅ぼす災厄。
でも、そんなことはどうでもいい。
冬竜王が息を止めた。そんな言葉を向けられたことなど、一度もない。誰もが畏れた。誰もが跪いた。誰もが距離を取った。
それなのに、触れただけで壊してしまいそうな脆弱な人間が、心の奥底にある何かに触れた。
雪那の手が動く。頬に触れていた指先が、ゆっくりと下へ滑る。首筋を通り、血で濡れた衣を越え、厚い胸板へ触れる。
熱かった。いつもは冷たい肌が、まるで熱病に侵されたように熱を持っている。
血が乾いて固まり、ざらりと指先を擦った。雪那はその熱を確かめるように手のひらを押し付けた。
「そばにいます」
静かな声だった。けれど不思議なほど真っ直ぐで。揺るがない。
「だから、もう休んでください」
部屋は静かだった。血の匂いだけが漂う。竜王は動かない。振り払うことも、拒絶することも、怒ることもなく。
雪那の手を、振り払えなかった。振り払うべきだった。今までならそうしていた。近付く者は全て拒絶してきた。畏れ。欲望。打算。憐憫。どれも必要なかった。
冬竜王はゆっくりと瞳を閉じる。
途端に眩暈がした。血を流し過ぎた。
武闘会の傷だけではない。春の国の結界を壊したこと、夏王との戦い。積み重なった疲労。削れた精神。全てが今になって押し寄せてくる。
けれど、眠れない。瞼を閉じて、意識を手放すことが恐ろしい。精神が、それを許さない。どうしようもない焦燥が、身を焦がす。
「……無駄だ」
掠れた声が落ちてきて、雪那が顔を上げた。冬竜王は自嘲するように笑った。深い、諦めだった。
「俺は眠れない」
その言葉は重かった。何百年も繰り返した絶望そのものだった。
「どれほど傷を負おうが、どれほど疲れようが、眠れない」
その言葉に、雪那の胸が痛んだ。
眠れない。その一言では片付けられない。眠ることを諦めるのは、一体どれほど長い時間だったのだろう。どれほど孤独だったのだろう。
雪那は静かに寝台へ腰掛けた。冬竜王の隣に。ほんの少しだけ距離を空けて。
「何をしている」
「まずは、治しましょう。私は、あなたが傷ついている姿を、これ以上見たくないです」
灰色の瞳が優しく細まる。
「眠れなくてもいいです。一緒にいます」
その言葉と同時に、胸板に当てられていた手から、淡い銀色の光が溢れて、冬竜王の身体の下に幾重にも幾何学模様が広がる。
裂けた肉が繋がり、貫かれて風穴が通った脇腹が、みるみる滑らかな肌に覆われ、傷を濡らしていた血が溶けるように消えていく。
目を伏せ、術式を展開する雪那を、冬竜王は静かに見つめた。触れられた手から流れ込んでくる温もりが、あまりにも優しくて。
酷く、瞼が重かった。思考が、霞がかったようにぼやけて、頭がグラリと傾く。
そのまま雪那の肩に額を預けると、予期していなかった重みに、雪那の身体が傾く。
そのまま寝台に倒れ込んだ雪那の上に、覆い被さるように冬竜王の身体が重なる。
「と、冬竜王様?」
「……このまま……」
冬竜王の大柄な身体に覆い被さられて、雪那は身動きが取れない中、必死にその身体に深く刻み込まれていた傷が塞がっているか確認する。
雪那の胸元に顔を埋める冬竜王が、深く息を吐く。
冬竜王の身体に、異常がないことを確認して、雪那は身体の力を抜き、その頭を掻き抱いた。
身体が、思うように動かせない。指先一つ動かせないほど、身体が泥のように重い。
けれどそれは、焦燥に駆られるようなものではなく、身を任せたくなるような、冬竜王が、何百年と感じられなかったものだった。
トクン、トクンと、耳元で雪那の規則正しい鼓動が聞こえる。
「大丈夫ですよ、そばにいますからね」
まるで、子守唄のような優しい声に誘われるように、冬竜王は、今度こそ瞼を閉じた。
長い長い夜の果てに、冬竜王は初めて一人ではない夜を知った。




