王の夜
武闘会は終盤へ差し掛かっていた。
数百人いた参加者は既に姿を消し、闘技場に残るのは僅か四人。ここまで勝ち上がってきた時点で、彼らは間違いなく冬の国でも屈指の強者だった。
観客席を埋め尽くす妖魔達が、再び雄叫びを上げる。誰もが待っていた。この瞬間を。
王の出陣を。最上段の王座で、冬竜王がゆっくりと立ち上がる。
闘技場全体が揺れているようだった。獣のような咆哮が、歓声が、ただ一人に注がれる。
冬竜王はそんな歓声を一瞥もしない。黒衣を翻し、闘技場へ降り立つ。
ただそれだけで、空気そのものが変わった。そこに立つだけで世界の中心になるような存在感。
数万の妖魔達を前にしても、その姿は微塵も揺るがない。
雪那はその光景に、思わず見入っていた。
そして、四人の戦士が同時に動いた。
轟音と共に、地面が砕ける。雪那の目では、その姿を捉えることも難しい。
冬竜王に、四方から襲いかかる。剣。拳。炎。氷。全てが同時だった。
冬竜王は動かない。避けない。剣が脇腹へ突き刺さる。炎が腕を焼く。拳が身体を打つ。氷が足元を凍らせる。
それでも、冬竜王は一歩も動かなかった。まるで雨でも浴びているかのように。紅い瞳が静かに四人を見下ろしている。
雪那はその光景に、目を見開いた。
「……なぜ」
呆然と呟く。理解出来ない。避けられるはずだ。どう見ても。なのに、何故。
肩口から血が流れる。脇腹から滴る赤が黒衣を濡らす。それでも冬竜王は反撃すらしない。
「どうして……どうして避けないんですか……」
初めてだった。雪那が武闘会を見ていて、明確な動揺を見せたのは。
「こんな、わざと血を流すような闘い方を……」
白狐は目を伏せた。氷雅が意外そうに目を瞬き、蒼白な顔で闘技場を見下ろす雪那を見つめる。
「……もしかして、ご存知ない?」
「何を……?」
雪那の目が、動揺で揺れる。白狐が口を開こうとして、閉じる。何度も。言うべきか迷うように。
答えを求める雪那のために、代わりに口を開いたのは氷雅だった。
「この大会は、陛下のために開催されているんですよ」
意味が分からなかった。
視界の隅で、冬竜王の腕から血が吹き出した。避けない。反撃しない。ただ受け続ける。どうして。何故。理解出来ない。
歓声は、大きくなるばかり。
「あの方は、こうでもしないと眠れないんですよ」
氷雅の穏やかな声が、やけに大きく聞こえた。雪那の呼吸が止まった。
「……え」
白狐が苦しそうに眉間へ皺を寄せる。そして静かに言葉を続けた。
「主様は、長い、長い生命の中で、眠ることが、難しくなってしまわれたのです……」
闘技場では戦いが続いている。冬竜王の血だけが流れる。歓声が響く。けれど雪那には遠く聞こえた。
「常人であれば狂ってしまうほどの長い時間を、あの方は眠れておりません」
雪那は言葉を失った。氷雅は憐れむように、ただ血を流す王を見つめる。
「こうして血を流し、限界まで自分を追い込み、ようやく僅かな睡眠を得るんですよ」
雪那は震える瞳で冬竜王を見つめた。自分の傷など、どうでもいいと思っているその顔が、やけに遠く感じる。
「私達妖魔は人間ほど睡眠を必要としません。ですが、眠らないということはありません。ただ、あの方の常軌を逸した強さが、並外れた精神力が、それを可能にしてしまった」
雪那は思い出す。
夜。何度目を覚ましても、窓辺に立つ黒い背中、本を読んでいる姿、外を見ている姿。
決して眠っていなかった。一度も。
「限界まで、闘いで血を抜いたこともあります」
氷雅は慣れたように淡々と説明する。けれど、その眉間は忌々しげに寄せられている。
「女を抱き、薬に頼り、酒を浴びるように飲み、思いつく限りの方法を試しました。それでも、眠れないのです」
白狐もまた、かつて自分が戦った時同様、一切反撃しない王を苦しげに見つめる。あの時と、数百年前と、何も変わらぬまま。
「今回は炎竜王様との戦いでかなり消耗されていました。だから武闘会の開催も迷いました」
それでも、開催した。眠るために。誰もが当たり前にできる、そんなことのために。
「きっと、この後は眠れるはずです」
雪那は何も言えなかった。胸が軋む。痛いほどに。
一体どれだけの夜を、一人で越えてきたのだろう。
終わらない夜を、果てのない時間を。終わりなく続く毎日を、どれだけ積み重ねてきたのだろう。
誰にも理解されない孤独を。
こんな風に、自分を削りながら、血を流しながら。
ずっと。
ずっと。
続けてきたのだろうか。
闘技場で、冬竜王がふっと片手を上げる。ただそれだけ、本当にそれだけだった。
四人の戦士達が吹き飛んだ。まるで人形のように地面に叩きつけられ、抵抗すら出来ず、壁へ叩き付けられる。
観客席が揺れる。歓声が爆発する。
そして、冬竜王の口元が緩んだ。
三日月のような笑み。美しく、どこか狂気を孕んでいる。
「どうした。終いか?」
歓声が轟く。
誰もが熱狂している。誰もが王を讃えている。けれど雪那だけは違った。
やめて。
そう叫びたかった。
これ以上、傷付かないでほしかった。




