持て余した自由
冬竜王に肩を抱かれたまま、雪那は城の回廊を歩いていた。
先程まで騒がしかった空気が嘘のように静かだった。
雪那の肩を抱くその腕は、強くもなく弱くもなく、逃がさないと言うよりは、そこにいることを確かめるような力加減だった。
雪那は少しだけ視線を上げる。歩くたびに頭上で括った黒髪が揺れる。彫刻のような整った横顔は、いつも通り無表情だった。
折角久しぶりにお会い出来たのに、迷惑をかけてしまっただろうか。そんなことを考えているうちに部屋へ辿り着いた。
扉が閉まる。冬竜王は肩を抱いていた腕を離し、長椅子に深く腰掛け、その長い足を組む。そして、目の前に立つ雪那を見上げた。
「あまり城の中を彷徨くな」
低い声だった。怒鳴っている訳ではないけれど、僅かに不機嫌なのが分かる。
「はい……申し訳ございません」
迷惑をかけてしまったことは事実だ。雪那は肩を落とし素直に謝罪する。
「どうしても外へ出たいなら、俺がいる時にしろ」
雪那が顔を上げた。予想していた言葉と違ったのだろう。叱られると思っていた顔が、少しだけ戸惑ったように揺れる。
「ご迷惑では……」
「一人で城を歩いて絡まれている方が面倒だ」
ぴしゃりと言い切られて、雪那は肩を竦めた。冬竜王は妖魔に掴まれていた腕に触れる。
「腕は」
「大丈夫です。もう治っているかと……」
雪那の言う通り、赤黒く変色していた筈の肌は、既に真っ白な雪のような肌に戻っていた。
痛覚のない雪那には、気にする必要もないことだが、冬竜王は忌々しげに眉間に皺を寄せた。
「……そうか」
「助けていただき、ありがとうございました」
冬竜王は小さく息を吐いた。雪那はすぐ部屋を出る。必ず羽雲を連れているから大丈夫だろうと思っているのだろうが、周囲は簡単には受け入れられない。
久しぶりに顔を見られたと思ったのに、結果として迷惑をかけてしまったと、雪那は自分の浅慮な行動を反省した。
冬竜王はそんな様子を見ていたが、それ以上言及することはなかった。代わりに、久しぶりに訪れた雪那の部屋を見渡す。
「変わりはなかったか」
「はい。問題ありません」
雪那は立ったまま答える。冬竜王は少し首を傾げた。座らないのか、と雪那を見ていると、冬竜王の座る長椅子と、その対面の椅子を、迷うように交互に見つめる。
冬竜王はようやく理解した。どこへ座るか悩んでいるのだ。雪那はちらりと冬竜王を見る。
隣へ行きたい。けれど、迷惑ではないだろうか。そんな考えが透けて見える。
結局、迷った末に対面の椅子へ向かおうとする雪那の細腕を掴む。
「え」
その腕を軽く引かれ、雪那はそのまま冬竜王の座る長椅子へ引き寄せられた。雪那が驚いたように冬竜王を見上げる。
「そこだ」
一言だけ。雪那は数回瞬きをして、それから嬉しそうに小さく笑った。
「……はい。ありがとうございます」
ただ隣に座っただけなのに。冬竜王は少しだけ不思議に思う。冬竜王の隣に座りたいなどと思う者は、今まで一人もいなかった。
けれど雪那は窮屈そうな様子もない。むしろ安心したように肩の力を抜いている。
冬竜王は顎へ手を当て、思考を巡らせる。雪那が部屋を出たがる理由は分かる。
長く幽閉されていたせいで、一人で部屋の中にいたくない気持ちが強いのだろう。自由に外へ出られる環境は、雪那が待ち望んでいたものだ。春の国での年月も思えば当然だった。
けれど、それだけではない気もした。
「お前」
「はい」
「字の読み書きは出来るか」
何の話が始まったのだろうと、不思議そうな顔をする雪那が首を傾げる。
「一通りは出来るかと……?」
「そうか」
冬竜王は立ち上がり、部屋の隅に置かれていた机へ向かう。その上に積まれていた本を数冊持ち上げる。
そしてそのまま雪那の前へ置いた。どん、と重みのある音が積み重なる。雪那が思わず固まる。
「読め」
「……はい?」
「暇なんだろう」
雪那が図星を突かれたように目を逸らす。冬竜王は小さく息を吐いた。
部屋を出たがる理由がようやく腑に落ちる。自由を求めているのもあるだろう。だが、それ以上に、雪那は時間の使い方を知らない。
春の国では生きるために治癒をしていただけだ。誰かに命じられず、自分で時間を使うという経験があまりにも少ない。
「春の国で与えられていた知識など高が知れている」
雪那は静かに積み上げられた本へ視線を落とす。
「外へ出た以上、知るべきことは増える。何も知らないままでは、また利用される」
世界は変わる。知識も更新される。外へ出た以上、それを知らなければならない。今まで雪那が触れられなかったものが無数にある。冬竜王は本の表紙を軽く叩いた。
「学べ」
雪那は目の前の一冊を手に取る。革張りの表紙、見慣れない題名。
ぱらりとページを開くと、知らない国の、知らない歴史、知らない世界が広がる。
本は好きだった。紙を捲れば、知らない世界がそこにある。時間を忘れられる。何より、新しいことを教えてくれる。春の国にいた頃も、本だけは何度も読んだ。与えられた数少ない娯楽だったから。
灰色の瞳が、僅かに輝いた。
冬竜王はそれを見逃さない。やはりそうか、と内心で思う。
ぱらり、と夢中で紙を捲る雪那の横顔を見つめる。雪那は、初めての自由を、持て余していたのだ。ならば与えればいい。
知識を、世界を。雪那は夢中になったように一頁、また一頁と、本を読み始めていた。先程まで城を歩き回っていたことなど忘れてしまったように。
暖炉の火が静かに揺れていた。雪那はもう本の中だ。
これで暫くは大人しいだろうと、そう思いながら眺める時間は、不思議と悪くなかった。




