不器用な男
その妖魔には、見覚えがあった。初めて城に来た時も、冬竜王を出迎える側近達の中にいた。
美しい黒髪を肩口で緩く結び、細い銀細工の眼鏡が彼の聡明さを際立たせていた。人間のように見えるが、その背中には猛禽類のような翼が折りたたまれていた。
廊下の向こうから歩いてきたその妖魔は、雪那に柔らかな笑みを浮かべる。けれど、その視線は冷ややかで、形だけの笑顔が張り付いたようだった。
「このような所で人間が何を?」
「……散歩です」
「散歩。随分と危機感が足りていないようだ」
妖魔は小さく笑った。敵意はないが、こちらに対する好意もない。けれど、羽雲は大人しく雪那の隣に控えたまま、威嚇することもない。
妖魔が一歩近付く。
「気をつけた方が良いですよ」
「何がですか?」
「この城には、あなたを快く思っていない者が多い。いくら陛下の眷属がついているとはいえ、ここの連中は本能で動きますからね」
心配しているようには見えない。むしろ、雪那に向いた視線は、どこか見定めるようなものだった。
「……はい。気をつけます。ありがとうございます」
「陛下は何が気に入ったんでしょうねぇ。まぁ、上手くやってください」
独り言のような呟きを残し、その妖魔は雪那の横を通り過ぎて行った。
その背を見送り、雪那はまた羽雲と共に城を歩いた。
あの妖魔の言う通り、向けられる視線は確かに鋭い。廊下ですれ違う妖魔達。小さな囁き声。向けられる冷たい眼差し。
誰も直接何かを言う訳ではない。けれど歓迎されていないことくらいは分かる。
冬竜王が連れてきた人間。妖魔達から見れば、それ以上でもそれ以下でもない。
窓の外を眺めながら角を曲がった、その時だった。
どん。
身体が何かにぶつかった。まるで岩壁に衝突したような衝撃だった。雪那の身体が軽く弾かれ、後ろに倒れ込んだ。
「ッ……!」
冷たい床の感触が、腰から這い上がる。ぶつかった相手を見上げると、視界いっぱいに黄金色が広がった。
巨大な身体。燃えるような鬣。鋭い金色の瞳。城へ来たばかりの頃、雪那の肩を外した獅子の妖魔だった。
「……お前は」
獅子もまた目を見開いていた。まるで予想外の相手を見たような顔だった。
雪那は座り込んだまま、頭を下げる。羽雲が非難するように獅子に向かって吠える。
「申し訳ありません。前を見ていなくて……」
獅子は瞳孔を細め、黙って雪那を見下ろす。怒られるのだろうか、と雪那は羽雲の背を借りて立ち上がる。
けれど、獅子は何か言いたそうに口を開き、閉じる。深い皺だけが眉間に刻まれていた。妙な沈黙だった。
「あの……?」
その時。
「雪那様!」
聞き慣れた声が響く。白狐が珍しく焦った様子で駆け寄ってくる。そして、雪那の前へ立つようにして獅子を睨んだ。
「貴様、また雪那様に――」
「白狐さん、違います。私がぶつかってしまって……」
雪那が慌てて止めると、白狐が雪那に怪我がないか全身を確認する。
「お怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「大丈夫です」
白狐は少し眉を寄せる。そしてまだ疑いが晴れていないように、獅子へ剣呑な視線を向けた。
「この男は無駄に力だけは有り余っていますから。お気を付けください」
白狐の言葉に、獅子は金色の瞳をカッと見開き、その大きな口を開いた。
「無駄ではない!この力は陛下を守るためにある!」
「主様はあなたに守られるような方ではありませんがね」
廊下に声が反響して、ビリビリと空気が震えるような大声だった。白狐は五月蝿そうに肩を竦める様子に、獅子はさらに毛を逆立てた。
「大体その娘が――」
そこまで言って、急に勢いが止まる。視線が泳ぐ。雪那は不思議そうに首を傾げると、獅子は露骨に目を逸らした。
そして。
「……怪我はないのか」
ぼそり、と呟く。雪那は一瞬何を言われたのか理解出来ず、目を瞬いた。白狐でさえ、は?と動きを止めた。
「え?」
「だから」
獅子は益々不機嫌そうになるが、再度同じ問いを投げかける。
「怪我はないのか、と聞いている。転んでいただろう」
「は、はい。大丈夫です」
雪那のきょとんとした表情に、獅子は鼻を鳴らす。ジロジロと遠慮なく雪那を上から下まで見つめる。
「お前が怪我をすれば、俺が陛下から怒られる」
それはまるで言い訳のような言い方だった。けれど、雪那はふと気付く。
「……心配してくださったんですか?」
獅子の動きが止まる。その様子を静かに見守っていた白狐が、横で静かに吹き出した。
「ふっ」
「笑うな白狐!!」
「最初から、心配した、とそう言えば良いでしょう」
「別に心配したわけではない!!またあの時のように怪我をしていないか確認しただけだ!!」
雪那は思わず笑ってしまった。獅子はきっと、意図していなかった雪那の怪我を、気にしてくれていたのだと気付く。
獅子はますます不機嫌そうになる。けれど、その瞳から敵意は消えているように見えた。
獅子が顔を逸らし、ぽつりと呟く。
「痛みがないのは……不便だろう」
雪那は目を瞬いた。そんなことを聞かれたのは初めてだった。春の国では誰も気にしなかった。むしろ、もし雪那が誘拐され、拷問されても、痛みがないなら問題ないなと言うような連中だった。
だから不器用な気遣いが、少しだけ嬉しかった。
「そうですね。少しだけ、不便ですね」
雪那は静かに笑う。獅子はそれ以上、何も言わなかった。白狐も黙っていた。
冬の回廊の向こう。窓の外では雪が静かに降り続いている。
その沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。




