探していた人
馬車がゆっくりと城門前へ降り立つ。
扉が開いた瞬間、肺の奥まで凍りつくような冬の風が雪那の頬を撫でた。
「……っ」
ふるり、と雪那の身体が震える。夏の国とはまるで違う。吐く息は白く、空気そのものが凍っているようだった。
するとすぐに肩へ柔らかな重みが落ちる。振り返れば白狐が、厚手の毛皮の外套を丁寧に掛けてくれている。
「寒いでしょう」
「ありがとうございます」
穏やかな声に雪那は小さく頷いた。ふわりと身体を包む温もりに、ようやく息がつける。
馬車の前には既に冬竜王の側近達が整列していた。
「お帰りをお待ちしておりました」
「ご無事で何よりです」
「狂化も無事に収まったようで」
口々に冬竜王へ労いと賛美の声が掛けられる。冬竜王は短く応じながら、その横を通り過ぎていく。
その後ろを歩く雪那へ向けられる視線はない。雪那は特に気にしていなかった。
自分はそういう存在だ。冬竜王が気まぐれにつれてきた人間、それ以上でもそれ以下でもない。
「雪那様。お部屋へ戻りましょう」
「はい」
白狐が優しく声を掛ける。足元では羽雲が嬉しそうに尻尾を振っていた。雪那は小さく微笑み、二人に連れられるように城の中へ入った。
着替えを終えた頃には、ようやく身体が温まっていた。
厚手の冬服。柔らかな毛皮。暖炉の熱。白狐が入れてくれた温かな茶。
ようやく身体から冷えが抜けて、雪那はほう、と息を吐きながら茶器を両手で包む。
「何だか……とても濃い日々を過ごした気がします」
白狐が茶器を手にしたままくすりと笑う。湯気の向こうで柔らかく目元を緩める。
「そうでしょう。移動も長かったですし、夏の国では色々ありましたから。今日はもうゆっくりお休みください」
「そうします」
夏の国での記憶が濃いせいで、久しぶりに感じる冬の国。雪那はふと部屋を見回した。
広い部屋、暖かな暖炉。足元には羽雲が寝そべり、何一つ足りない物はない。
なのに何故か落ち着かない。何かを探すように視線が彷徨う。
そして自分が誰を探していたのか気付いて、戸惑った。茶器を持つ指に力が入る。
何故探しているのだろう。理由は分からない。夏の国では、ずっと一緒にいたからだろうか。
夏の国では常に視界のどこかにいた。それが当たり前になっていた。だから今、少しだけ落ち着かないのかもしれない。
「白狐さん。今日はもう、休みます」
「ええ。何かあったらお呼びくださいね」
部屋の扉が閉まる。羽雲が先に寝台へ飛び乗った。雪那もその隣へ横になる。
柔らかな寝具に思い身体を沈み込ませる。疲れが一気に押し寄せてきた気がして、瞼が重い。
ぼんやりとした意識の中で、かちゃ、と金属の音が手首から鳴る。薄く目を開け、冬竜王に着けて貰った銀細工の腕輪を見る。
便利だからそのまま着けていろ、と冬竜王に言われ、あれからずっと着けているが、今はもう肌の一部のように馴染んでいる。
深紅の石が冬竜王の瞳のようで、それを見つめているだけで、何だか安心できる気がした。
そうして瞼を閉じた。
『お前を決して逃さない』
耳元で、あの術師の声が聞こえた気がして、ハッと目が覚めた。
暗闇の底から、心臓を撫でられたような感覚に、雪那は眉を寄せる。冷や汗が滲む額を手で覆い、乱れる鼓動を落ち着かせようと深く息を吐く。
その時だった。扉の開く音が響いた。
白狐だろうかと、扉の方に目を向ける。そして、視界に映った人物に雪那は瞬きをした。
「……冬竜王様?」
部屋に入ってきて、遠慮なく寝台の横までやってきたのは、冬竜王だった。
薄暗い部屋でも分かる彫刻のように整った顔立ち。腕輪の石より更に深い紅色の瞳が、雪那を見下ろす。
「起こしたか」
冬竜王が寝台の縁へ腰掛ける。雪那は慌てて起き上がろうとした。だが、肩へ手が置かれる。
「良い。寝ていろ」
有無を言わせない声に、雪那は大人しく布団へ沈んだ。
「具合は」
「え……?」
「白狐がお前の顔色が悪かったと言っていたが」
雪那は小さく目を瞬いた。それだけのために、わざわざ部屋まで来てくれたのだろうか。
「……いえ。少し疲れていただけです」
「そうか」
冬竜王は短く頷く。それだけだった。そして静かに立ち上がる。どうやら本当に確認だけだったらしい。
「なら問題ないな」
そのまま去ろうとするその背中を見て、雪那の手が、無意識に伸びていた。
冬竜王の手を掴む。ひやりと冷たい感触。
「なんだ?」
足を止めて振り返った冬竜王に、雪那ははっとした。自分でも何故掴んだのか分からない。呼び止めた理由などない。ただ、離れて欲しくなかった。
「い、いえ……何でもありません」
黙って見下ろしてくる視線から逃げるように雪那が手を離そうとした。
だが離れる前に、逆にその手を握り込まれた。大きな手が、雪那の手を包み込む。雪那が目を丸くする。
その反応に、冬竜王は僅かに眉を上げた。
「お前が掴んだんだろう」
当然のような声だった。雪那は言葉に詰まる。確かにそうなのだが。そうなのだけれど、説明できない。
冬竜王はそれ以上追及しなかった。離せということもなく、そのまま寝台へ座り直す。
不思議だった。ただそれだけなのに、春の国の悪夢も、胸を締めていたざわめきも、振り払われていくようだった。
雪那は小さく息を吐き、冬竜王の手をそのまま頬へ引き寄せる。詰まっていた呼吸がようやくほどける。
「……夏の国は、どうだった」
夜の空白を埋めるように、ぽつりと問われる。雪那は少し考えてから答えた。
「楽しかったです。炎竜王様も、蓮華様も、水煌も、術師の方々も、素敵な国でした」
「……そうか」
蓮華と歩いた水煌の街を思い出して、自然と言葉が出た。
「市場も、食べ物も、甘味処も……知らないものばかりでした」
「うるさかっただろう」
冬竜王がくつ、と小さく喉を揺らす。それに釣られるように雪那が笑う。
「少しだけ」
冬竜王の口元も僅かに緩んだ気がした。それからぽつりぽつりと話した。夏の国で見たこと、食べたもの、蓮華のこと。炎竜王のこと。
冬竜王は相槌を打つだけだったが、それで十分だった。
沈黙が落ちる。暖炉の火が揺れている。羽雲が丸まって寝息を立てていた。雪那の瞼も少しずつ重くなる。
それでも、握った手を離したくなかった。
「雪那」
「……はい」
「寝ろ」
雪那は少しだけ迷う。それから、ほんの少しだけ勇気を出した。
「……もう少しだけ」
頬に当てた手を離さないまま。雪那は小さく呟いた。
「このまま……いてください」
その声は、あまりにも小さかった。けれど冬竜王には届いていた。しばらく沈黙が落ちる。
「好きにしろ」
呆れたような声だった。けれど立ち去る気配がないことに、安心したように雪那はそのまま瞼を閉じる。
その冷たい手だけは、最後まで離さなかった。
冬竜王もまた、眠りに落ちた雪那の手を、離さなかった。




