安寧の在処
城へ戻る頃には、夕陽が回廊を赤く染め始めていた。
「では、一度診てもらってきますね」
蓮華が雪那を安心させるように穏やかに笑い、炎竜王と共に夏の国の術師たちの待つ奥へ歩いていく。
雪那は深く頭を下げ、その背を見送った。
蓮華はもう歩けていた。顔色も悪くない。意識もはっきりしている。ちゃんと、無事だった。それを確認したはずなのに。
部屋へ戻り、扉が閉まる。
「――……っ」
急に、息が止まる。ひゅ、と細い音が喉から漏れた。
吸えない。違う、吐けない。
肺が潰れるみたいに苦しくて、雪那は咄嗟に胸を押さえた。
「雪那?」
後ろに控えていた冬竜王の声が聞こえる。けれど返事ができない。
ひゅ、ひゅ、と壊れた笛みたいな呼吸だけが漏れていく。
苦しい。苦しい。怖い。
雪那はその場に崩れ落ちた。胸を掻きむしるように抑え、細い肩が震え、呼吸を求めるように喉が痙攣する。
「おい」
冬竜王がすぐ傍へ膝をつく。大きな手が背中へ触れた。けれど、それだけでは駄目だった。
息ができない。胸が痛い。頭が真っ白になる。視界が滲む。
過去の記憶が、嫌でも引き摺り出される。あの声を聞いた瞬間から、ずっと身体の奥で震えていた恐怖が、今になって一気に溢れ出した。
息を吸わなければならないのに、吸えば吸うほど苦しくなる。
「……ひッ、ふ、ぅッ……!」
呼吸が崩れる。雪那は助けを求めるのうに震える腕を伸ばした。最後の力を振り絞るように、冬竜王の衣を掴む。
「た……す、け……っ」
掠れた声だった。呼吸の隙間から零れ落ちた、救いを求める声。
呼吸が完全に崩れていた。このままでは、意識を失う。
冬竜王が雪那の顎を掴み、そのまま口づけた。
「――……っ」
驚く暇もない。唇が重なり、そのまま息が流し込まれる。
冷たく澄んだ空気が肺へ落ちた。雪那は反射的にそれを受け取る。
離れては、また口付けられる。息を流し込まれ、受け取る。そんな動作を繰り返す。まるで呼吸を教え直されるみたいに。
ひゅ、ひゅ、と乱れていた呼吸が、少しずつ整っていく。強張っていた肩から力が抜け、酸素を求めていた肺がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
やがて冬竜王は、雪那の呼吸が安定したのを確認して、静かに唇を離した。
酸欠で力を抜けなくなった白い指先が、震えたまま手のひらに食い込んでいた。
冬竜王はその冷たい指に温もりが戻るように、ひとつひとつ解いていく。
「……王妃は無事だった」
腕の中にいる雪那が、床に座り込んだまま冬竜王を見上げる。
「お前も見ただろう」
幼児に言い聞かせるような声音だった。雪那は小さく頷く。
分かっている。蓮華は無事だった。ちゃんと、生きていた。
けれど。
「……あれ、は……」
「誰だった」
問われて、雪那の身体がびくりと揺れた。少しの沈黙のあと、震える唇がようやく言葉を紡ぐ。
「……春の国の……術師、でした……」
恐怖が喉を引き攣らせる。子供に憑依していたが、雪那を使い捨ての道具としか見ていないあの目を、忘れるはずがなかった。
「……私に、王石を埋め込んだ……」
そこまで言った瞬間。雪那は自分の身体を抱き締めた。ぎり、と肌に爪が突き刺さる。痛みを感じない身体は、自分で止めることができない。
冬竜王がその手首を掴んだ。
「……っ」
食い込んだ肌から、僅かに血が溢れて、音もなく傷は消えていく。こんな身体にされた、その過程が、何度も何度も雪那を恐怖で埋め尽くす。
青白い顔。震える身体。冷え切った肌。触れている雪那の体温の方が、冬竜王よりずっと冷たかった。
その事実に、冬竜王の眉間が僅かに歪む。内側で、静かに殺意が滲んだ。春の国は、まだ雪那を諦めていない。
――殺しておけば良かった。
目を離すべきではなかった。雪那の震えは止まらない。冬竜王はそのまま雪那を抱き寄せる。
このまま恐怖に押し潰されてしまわないように。冷え切った身体を覆い隠すみたいに、その背を抱き締めた。
「もういない。ここには来ない」
雪那の灰色の瞳が揺れる。
「……っ」
「お前は、今俺の腕の中にいる」
大きな手が、背中を撫でる。今雪那がいるのは、春の国ではない。冬竜王の腕の中だと、理解させるように。
雪那にとって、冬竜王の腕の中だけが、唯一心を預けられる場所。
その事実をようやく身体が理解した瞬間、ふ、と灰色の瞳から光が消え、そのまま雪那の身体から力が抜けた。
やっと身体が意識を手放せたのか、と冬竜王は雪那を抱き上げ、寝台に寝かせる。
泣き腫らした瞼も、爪が食い込んだ痕も、朝には消えているだろう。雪那の身体は、そういう身体だ。その痛みさえ感じられないまま、残らず消える。
冬竜王は、せめて眠りの中だけは安寧であるようにと、ただその寝顔を見つめた。
朝の柔らかな陽射しが、薄絹の帳を淡く透かしていた。
昨夜の騒動が嘘のように静かな部屋で、雪那は長椅子に座っていた。
一晩眠ったはずなのに、身体は鉛のように重い。少しでも気を抜けば、昨日の声が耳元で蘇りそうだった。
その白い頬には血の気がなく、膝の上で重ねられた指先はどこか落ち着かなげに震えている。
その隣には冬竜王がいた。長椅子に深く腰掛け、雪那を視界に入れたまま静かに腕を組んでいる。
やがて、扉が叩かれた。
「入れ」
低い声の許可と共に、炎竜王と蓮華が部屋へ入ってくる。
雪那は二人が入ってくると同時に立ち上がり、蓮華の姿に異変はないか具に確認する。
「蓮華様、お加減は…?」
「問題ありませんわ。王宮の侍医にも、術師にも診てもらいました。ご安心を」
「良かった……本当に、申し訳ありませんでした」
深く頭を下げる雪那を、蓮華が駆け寄り慌てて止める。
「謝らないで。連れ出したのはわたくしです。雪那様は何も悪くありません」
強い声だった。けれどその奥にあるのは怒りではなく、心からの案じる気持ちだ。炎竜王も静かに頷く。
「昨日の件について、詳しく聞かせてくれ。無理にとは言わん。だが、お前達を狙う者について把握しておきたい」
顔を上げた雪那の肩が僅かに震えた。冬竜王が視線を向ける。
その紅い瞳は、“話せ”とも“話すな”とも言わない。ただ、選択を雪那自身に委ねていた。
雪那は小さく息を吸った。
「……春の国で、私は……奇跡の巫女と、呼ばれていました」
ぽつり、と零れるような声。冬竜王がその手を引き、隣に座らせる。向かいには、炎竜王と蓮華が腰掛ける。
「雪那様、顔色が……まだ無理をしない方が……」
「……ありがとうございます。大丈夫です。巻き込んでしまった以上、話させてください」
雪那は膝の上に重ねた手を、震えないよう強く握り込む。
「奇跡、と呼ばれた力を、私は最初から手にしていたわけではありませんでした……」
その声が、少しずつ掠れていく。そして語る。自分の生い立ちと、奇跡の力の正体を。




