水の都
太陽はすでに真上に上がり、夏の国は熱を帯びていた。
王宮の庭には、街へ向かうための馬車が一台、静かに止まっている。装飾は控えめで、日常の外出用のそれだった。
馬車の前に立つ雪那の足元で、羽雲が小さく鳴いた。
「きゅぅ……」
今日は一緒に行けない。それが分かっているのか、羽雲は雪那の服の裾に身体を寄せたまま離れようとしない。
「大丈夫ですよ」
雪那はしゃがみ込み、そっと顎の下を撫でる。柔らかな羽毛が指先に触れ、羽雲はようやく落ち着いたように目を細めた。
少し離れた場所に、二人の王が並んで立っていた。ただそこに立っているだけで、空気の温度が変わるような存在感だった。
王妃が一歩前へ出る。穏やかな微笑みを浮かべて、炎竜王へ視線を向けた。
「では、行って参りますわ」
迷いのない声だった。炎竜王は王妃の手を取り、引き寄せるでもなく、ただ確かめるように指先を包み込み、そのまま静かに口付けを落とした。
「……気を付けろ」
低く、落ち着いた声。普段の太陽のように力強いものとは違う、それでも奥に強い感情を隠した声音だった。
王妃はそれを理解している。この人がどれほど葛藤しながら、それでも自分を外へ出そうとしているのかを。だからこそ、胸の奥に愛しさが広がった。
「えぇ。ちゃんと帰ってきますわ」
王妃の手を握る炎竜王の指に一瞬力が入るが、名残惜しそうにその手を離した。
その隣で、冬竜王が雪那へ視線を向ける。
「腕輪は決して外すな。護衛はいるが、王妃から離れるな」
「はい。分かりました」
淡々と説明される内容に、雪那は素直に頷いた。冬竜王が、雪那の手首に嵌められた腕輪を指差す。
「もし、何かあれば、その石に触れて俺の名を呼べ」
雪那の手首には銀の腕輪。深紅の石がはめ込まれている。それは魔力で冬竜王と繋がっており、呼びかければ彼の元へ繋がる“鍵”だった。
「……分かりました」
雪那は小さく頷く。そして少しだけ迷ってから、真っ直ぐにその深紅の瞳を見上げる。
「あの……許していただき、ありがとうございます」
その言葉に、冬竜王の視線が雪那へ落ちる。上から見下ろされる形になった雪那は、自然と背筋を正した。
いつもの簡素な姿ではない。銀髪は紅い紐で丁寧に編み上げられ、背へ流されている。薄紅色の衣は光を受けて柔らかく揺れ、薄く施された化粧が輪郭を静かに引き立てていた。
王妃のように、華やかで目を惹く美しさではない。けれど、儚さが形取られたような、雪の結晶のような透き通る美しさがあった。
冬竜王の胸の奥に、言葉にできない違和感が沈む。誰かが、知らない視線を、この少女に向ける。それが妙に気に障った。
陽の光に透ける銀髪が、美しい顔立ちが、見られることなど当然だ。
一瞬、眉がわずかに動いた。その気配に気づいたのか、雪那が戸惑うように顔を上げる。
「あの?」
冬竜王はわずかに視線を逸らした。気付かないふりをするように。
「行ってこい」
それだけを短く告げる。
雪那と王妃が、馬車に乗り込む。そして馬車は王宮を後にした。
街の手前で馬車が止まる。扉が開いた瞬間、熱を帯びた空気が一気に流れ込んできた。
人の声、獣の気配、妖魔の気配さえ混ざる喧騒で、通りは溢れていた。
食事処から立ち上る香り、市場の呼び声、金属音、笑い声。武器屋や商会の看板が並び、それぞれが同時に“生きている”ようだった。
雪那は思わず目を見開く。冬の国でも市場は見たことがある。けれどここは違う。
密度も、音も、熱量も、すべてが圧倒的だった。
そして何より目を引いたのは、街を縫うように張り巡らされた水路だった。澄んだ水が光を反射しながら流れ、その周囲に市場が展開されている。水の流れと人の流れが共存していた。
「……すごい……」
小さくこぼれる声。人の波を縫うように前を歩いて王妃が振り返る。
「雪那様、人が多いですからね。はぐれないように」
その言葉に、雪那は慌てて一歩前へ出る。王妃の後ろをついて歩きながら、雪那は何度も周囲へ視線を向けていた。
一歩進むたびに、景色が次々と変わっていく。
人の流れ。聞き慣れない言語。獣人の大きな背。羽のある種族が屋根の上を移動する影。妖魔の気配が混じる市場の喧騒。
すべてが同時に存在していて、どこから見ればいいのか分からないほどだった。
「……こんなに、人が……」
「えぇ、夏の国は交易の要ですから」
その言葉通り、街にはあらゆるものが溢れていた。
食事処の前では湯気の立つ料理が並び、香辛料の匂いが風に乗って流れてくる。市場では布や宝石が光を反射し、商人たちの声が絶えず響いていた。
そのすべてが、雪那の知らない“日常”だった。歩いているだけなのに、視界が追いつかない。
その時、横を通り過ぎた露店で、小さな果実が山のように積まれているのが見えた。
赤く透き通る果実。表面に水滴が光っている。雪那の視線が、ほんの少しだけ止まる。
「気になりますか?」
「いえ……ただ、綺麗だなと……」
「では、少し見ていきましょうか」
当然のように言って、王妃は歩みを止めた。雪那は慌てて後ろからついていく。
露店の前に立つと、商人がすぐに笑顔を向けてきた。
「おや、美しい方々。何をお望みで?」
「それとそれ、あとこれも」
王妃は慣れた様子で応じる。雪那はそのやり取りだけでも少し緊張していた。
“知らない人と話す”ということ自体が、まだ慣れていない。
だが商人は特に気にする様子もなく、果実を一つ手に取って見せた。
「これは夏の南側で採れる果実でね、冷やすと甘みが増すんだ。ひとつおまけするよ。食べてみるかい?」
差し出された果実に、雪那は一瞬戸惑う。視線を王妃へ向けると、王妃は微笑んだまま頷いた。
「いただいてみましょうか」
小さく頷いて、雪那は恐る恐る果実を受け取る。指先に伝わる冷たさと、ほんのりとした柔らかさ。
そっと口に運ぶと、薄い皮が弾けるように割れ、甘さが広がった。
「……っ」
驚いたように目を見開く。ただ甘いだけではない。少しだけ酸味があって、後から香りが追いかけてくる。知らない味だった。
「美味しい……」
「だろう? この時期のは特にいいんだ」
王妃は包んでもらった果実を受け取り、次の店に向かう。
歩き出すと、次は布の店が目に入る。風に揺れる鮮やかな布の数々。赤、青、金、白。光の加減で色が変わって見えるものもある。
「この国の布は、水の染色が得意なんです」
王妃が説明する。雪那は思わず近づき、そっと一枚に触れた。滑らかで、軽い。冬の国の布よりもずっと薄く、風を通すようだった。
別の店からは鈴の音が聞こえる。振り向くと、小さな装飾品が並んでいた。耳飾り、髪飾り、腕飾り。
雪那の髪に編み込まれた紅い紐に目を留めた店主が、軽く声をかけてくる。
「そちらのお嬢さん、その髪ならこれが似合うよ」
差し出されたのは、細い銀細工の髪飾りだった。雪那は反射的に一歩引きかける。けれど王妃が、横からそっと見て言った。
「折角です。試してみては?」
抵抗する理由も見つからず、雪那は小さく頷く。髪に触れられる感覚はまだ少し落ち着かない。けれど、そっと差し込まれた銀の飾りは、不思議と重くなかった。
鏡代わりの金属板に映った自分を見る。紅い紐と銀の飾りが光を受けて揺れていた。
「……変、じゃないでしょうか」
自分では変かどうかも判断出来ず、不安そうに問うと王妃は即座に首を振る。
「とても綺麗ですわ」
その言葉に、雪那は少しだけ視線を逸らした。胸の奥が、落ち着かない。けれど嫌な感じではなかった。
むしろ、知らない感情が静かに積もっていくような。
そのまま通りを進むと、水路の上に小さな橋がかかっていた。透明な水が流れ、その中を小さな魚のような生き物が泳いでいる。
「……美しい街ですね」
「ふふ。この国は水と共にありますから」
風が吹き、水面が揺れた。光が砕けて、街全体がきらめいたように見えた。
雪那はその光景を、しばらく言葉もなく見つめていた。今、この街を歩いている時間が、終わってほしくないと思った。




