準備
朝――。
夏の国の朝は早い。鳥の声と、遠くから聞こえる街のざわめき。夜の静けさとは違う、生きた国の音がゆっくり部屋へ流れ込んでくる。
雪那は浅い眠りの中で、誰かの話し声を聞いた。低く落ち着いた声と、もう一つ、穏やかに響く声。
意識がゆっくり浮かび上がる。
……誰か、いる。
ぼんやりと目を開けると、最初に視界へ映ったのは黒だった。艶のある黒衣。
「……あれ……」
寝ぼけた頭では理解が追いつかない。
頬に触れているのは寝台の柔らかさではなく、程よい硬さとひんやりした温度。心地よくて、雪那は無意識に少し擦り寄った。
「……起きたか」
真上から低い声が落ちてきた。雪那の思考が止まる。ゆっくり顔を上げると、すぐ近くに冬竜王の顔があった。
深紅の瞳が静かにこちらを見下ろしている。
「…………え」
視線を落とし、雪那はそこでやっと自分の状態を把握した。一気に意識が覚醒して、慌てて身体を起こす。
「……っ!!?も、申し訳ありません……! わ、私……!」
「別に構わん」
さらりと返されて、余計に混乱する。その時、くつりと控えめな笑い声がした。
「仲睦まじいのは良いことだ」
視線を向けると、部屋の奥に炎竜王がいた。
窓辺へ寄り掛かるように立ちながら、どこか面白そうにこちらを見ている。
雪那はそこでようやく、先程聞こえていた声の相手が炎竜王だったのだと気付いた。そして同時に理解する。膝の上で眠っていたところを見られていた。
「……ぁ」
かっと顔に熱が集まる。炎竜王はそんな雪那を見て、喉の奥で小さく笑った。
「安心しろ。王妃には言わないでおこう」
「っ……!」
「まぁ、すでに気付かれてる気もするがな」
「炎の」
冬竜王の低い声が、諌めるように落ちる。炎竜王は肩を竦めると、それ以上はからかわなかった。
「今日は少し頼み事があって来た」
「頼み事だと。これ以上何を頼むつもりだ」
「王妃が、雪那を街へ連れて行きたいと言っていてな。ほら、この間話していただろう」
「……街だと?」
冬竜王の眉間に深い皺が寄った。声音に露骨な不快感が混じる。炎竜王は慣れた様子で続けた。
「菓子を見たり、布を見たり、街に降りて、女同士で出掛けたいらしい」
「却下だ」
即答だった。会話を見守っていた雪那が、その返答にびくりと肩を揺らす。炎竜王は苦笑した。
「だから私が来た。お前が簡単に頷かんことくらい分かっている」
「夏の国は人も妖魔も、それ以外も多い。何が起きるか分からん」
その声音には警戒が滲んでいた。炎竜王も否定はしない。むしろ、その懸念を理解しているからこそ、懐から小さな腕輪を取り出した。
銀細工の腕輪。嵌め込まれた紅色の石が、朝の光を受けて静かに煌めく。
「王妃にも、同じ物を持たせている」
そう言って、自分の左手を軽く持ち上げる。同じ銀細工に、藍色の石を嵌めた腕輪が、そこにあった。雪那は小さく目を見開く。
「探知用の魔具だ。石へ魔力を込めれば位置も気配も辿れる。もちろん護衛も付けよう」
炎竜王は脳裏に愛する王妃を思い出して、穏やかに笑った。
「本音を言えば、俺もあまり外へ出したくはないがな」
ただ一人の王妃を脳裏に思い浮かべて、炎竜王は笑みを溢す。炎竜王にとって唯一の弱点。本当は王宮に閉じ込めて、自分以外の目に触れないで欲しい。けれど、それをしないのは。
「……あいつが自由に笑っている顔が好きなんだ」
炎竜王はどこか諦めたように笑う。青空の下で、太陽のように輝く笑顔で過ごしている王妃を、炎竜王は誰よりも愛している。
「閉じ込めて曇らせるより、自由を与えたい」
静かな言葉だった。冬竜王は不機嫌そうに眉を寄せたまま聞いていた。
銀の台座に嵌められた石は、冬竜王の瞳と同じ深紅だった。雪那はその腕輪を見つめる。
――街。
行ってみたい。夏の国の人々が暮らす場所を。王妃が見せたいと言ってくれた景色を。
胸の奥が、少しだけ熱を持つ。雪那はそっと口を開いた。
「あの……」
二人の視線が向く。雪那は躊躇いながらも、その視線を受け止め、小さく言った。
「私……行ってみたい、です」
静寂が落ちる。冬竜王が、僅かに目を見開いた。雪那が、自分から望みを口にした。
それはきっと、冬竜王にとって予想外だった。長い沈黙のあと、冬竜王はゆっくり息を吐き、腕輪を持ち上げる。
指先が深紅の石へ触れた瞬間、淡い紅い光が石の奥へ沈んだ。
「……絶対に外すな」
「はい」
押し殺すような低い声だった。冬竜王は雪那の細い手首を取る。冷えた銀が肌へ触れる。
かちり、と小さな音を立てて腕輪が嵌められた。その手は大きくて、少し不器用で、けれど壊れ物を扱うみたいに、慎重だった。
雪那はそっと腕輪を見つめる。深紅の石が、陽の光を受けて静かに揺れていた。
朝の支度を終えたあと、雪那は王妃の私室へ呼ばれていた。
王宮の一番奥、厳重に警護されたその一室は、開け放たれた窓からは花の香りを含んだ風が吹き込み、薄布の帳がゆるやかに揺れている。室内には淡い香油と花茶の香りが漂い、卓の上には色とりどりの装飾品や衣が広げられていた。
「さて、今日は街へ行くのですから。少しだけ、いつもと違う雪那様になってみましょうか」
「わ、私が……ですか?」
「えぇ」
王妃は当然のように頷く。その仕草には無理強いするような圧はなく、ただ“似合うものを着せてみたい”という純粋な好意が滲んでいた。
後ろに控えていた侍女達が静かに衣を広げる。王妃が手に取ったのは薄紅色の薄布を幾重にも重ねた夏衣だった。
淡く柔らかな紅。雪那はそれを見て、何故だか冬竜王の瞳を思い出す。
「これが似合うと思っていたの」
「綺麗ですね……でも、私には……」
王妃は衣を雪那へ当てながら、満足そうに目を細めた。思わず零れた雪那の呟きに、王妃がふっと笑う。
「似合いますよ」
雪那は途端に居心地悪そうに視線を逸らした。鏡の前へ座らされ、銀髪へ丁寧に櫛が通されていく。
さらさらと髪が流れる音がした。侍女ではなく、王妃自ら雪那の髪を結い上げていく。
「本当に綺麗な髪ですね。月光を糸にしたみたい」
雪那は小さく肩を縮めた。褒められることに慣れていない反応だった。王妃はそれ以上言わず、ただ優しく髪を整えていく。
薄く化粧も施し、用意されていた衣に袖を通し、耳元へ、小さな飾りが添えられる。透明な硝子細工に、淡い紅の石。動くたびに小さく光が揺れた。
「いかがですか?」
恐る恐る鏡を見た雪那は、息を呑む。薄紅色の衣に包まれた自分は、いつもの簡素な姿よりずっと柔らかく見える。
「……私じゃないみたいです」
ぽつりと呟けば、王妃は穏やかに笑った。
「いいえ。ちゃんと雪那様ですよ。ただ、貴女は今まで自分を飾る余裕がなかっただけ」
雪那は鏡越しに王妃を見る。王妃は今日、深い藍色の衣を纏っていた。夜空を映したような色だった。
白い手首には、雪那と同じ銀の腕輪。そこへ嵌め込まれた藍玉が静かに光っている。炎竜王の瞳と同じ色。
雪那が視線を向けたことに気付いた王妃は、小さく笑い、その腕輪にそっと触れる。まるで、宝物に触れるような手つきだった。
「ふふ、過保護な王達ですよね」
その言葉には苦笑が混じっていた。けれど、不満はない。むしろ愛しさを含んだ声音だった。
「本当は、外になど出て欲しくないと思っているのは、分かっているんです」
「炎竜王様が……?」
「えぇ」
王妃は窓の外へ目を向ける。太陽を浴びて煌めく街を見て、王妃は眩しそうに目を細める。
「危険がないとは言えませんから」
夏の国は人も妖魔も多く、豊かで賑やかな国だ。けれど、人が多ければ、その分危険も増える。王族の伴侶は、それだけで弱点になる。
「ですが、閉じ込めてしまうより、自由に笑っていてほしいと思ってくださる方なのも、理解しております」
静かな惚気だった。けれど嫌味はなく、長い時間をかけて育てられた信頼が見える。
雪那は自分の手首へ視線を落とした。そこにも、銀の腕輪。深紅の石。無意識にそっと触れると、微かに冷たかった。
王妃が最後の支度を整え、雪那を立ち上がらせ、手を引く。
「さて、そろそろ参りましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
王妃が一歩近づき、最後に雪那の前髪へそっと触れる。整えるように指先で流して、それから満足そうに微笑んだ。
「とても可愛らしいですわ。雪那様」
その言葉に、雪那の頬がほんのり赤く染まった。




