夜を超える温もり
陽が落ちて、部屋に戻る頃には、雪那は目に見えて疲れていた。
慣れない会話を長時間続けたせいだろう。術について話している間は夢中だったが、部屋を出て静けさの中に戻ると、一気に気が緩んでしまったらしい。
冬竜王は腕の中にいる雪那を一瞥すると、短く言った。
「今日はもう休め」
そのまま自室へ連れて行かれる。夏の国の夜はぬるい風を孕んでいた。開け放たれた窓から柔らかな風が入り、薄い白布の帳をゆるやかに揺らしている。
出迎えた白狐は、冬竜王の腕に抱かれた雪那に一瞬目を見開いたが、いつも通り涼しげな目元を緩めて微笑む。
「お帰りなさいませ」
「休ませてやれ」
そのまま寝台へ降ろされた雪那は、ぼんやりとした頭のまま、冬竜王の広い背中を見る。
「畏まりました。雪那様、湯浴みの準備が出来ていますよ」
「……はい」
白狐に手を引かれ、半分眠気に支配されてぼんやりとした頭のまま湯浴みを済ませる。
夏の国の寝間着は、冬の国とはまるで違っていた。薄い紗を重ねたような衣は熱を逃がすように軽く、肌へさらりと馴染む。袖も裾もゆるやかで、歩くたびに淡い布が揺れた。
簡単な食事を済ませて、雪那はようやく寝台へ身体を沈めた。
「今日はお疲れでしょう。ゆっくりお休みくださいませ」
「白狐さん、ありがとうございます」
白狐が静かに退室していく。
雪那が寝る支度をする間、冬竜王は部屋を出て行く気配もなく、窓際に置かれた長椅子へ腰を下ろし、卓上の酒瓶を傾けていた。
とく、と小さな音が響く。琥珀色の酒が杯へ注がれていくのを寝台から見つめながら、雪那は回らなくなった頭で少しだけ考える。
たまに夜中、勝手に部屋を抜け出してしまうから、その監視だろうか。そう思えば納得できた。
冬竜王は何か話しかけてくるわけでもない。ただ静かに酒を飲み、分厚い本を読み、時折窓の外へ視線を向けている。
不思議と、居心地が悪くなかった。風の音と、紙を捲る音。酒の注がれる水音。誰かが同じ空間にいる気配。
それがゆっくりと意識を溶かしていく。雪那いつの間にか深い眠りへ落ちていた。
ふと、目が覚める。部屋は薄暗く、窓の外には深い夜が広がっていた。
ぼやけた視界の先で、冬竜王はまだ長椅子に座っている。夜に溶けるような黒髪を夜風に揺らしながら、静かに窓の外を見ていた。
雪那はしばらくその背中を見つめる。
……眠っていない。ずっと起きていたのだろうか。ぼんやりした頭のまま、小さく声を落とす。
「……お休みにならないのですか」
冬竜王は、雪那が声をかけても振り返らなかった。
「あぁ」
短い返答だけが落ちる。けれど、その短い声が妙に静かで。雪那は胸の奥が、少しだけ引っかかる。
誰もいない夜に、一人で起き続ける背中。その空気が、どこか自分に似ている気がした。
雪那はそっと身体を起こし、布団を抜け出す。冷たい床を裸足で踏みながら、ぺた、ぺた、と歩く。
近づいてきた気配に、冬竜王がゆっくり視線を向けた。
「……起こしたか」
雪那は答えなかった。代わりに、長椅子に腰掛ける冬竜王の隣に座り、ふらりと身体を預ける。
そして犬のように、ぽすん、と膝へ頭を乗せた。
ぴく、と冬竜王の身体が揺れる。深紅の瞳がわずかに見開かれた。雪那自身、半分眠っていた。
ひんやりとした冬竜王の体温が心地よくて、そのまま擦り寄るように頬を押しつける。
「……雪那」
「……ここに、いますからね」
低い声で名前を呼ばれるのが心地良い。
雪那は安心したように目を閉じたまま、すう、と静かな寝息を立て始める。
冬竜王はしばらく動かなかった。膝の上にある重みは驚くほど軽い。壊れ物みたいに細くて、熱を失えばそのまま消えてしまいそうな身体。
そのくせ、無防備に体重を預けてくる。冬竜王は長く息を吐いた。
長い人生の中で、こんな風に無防備に寄りかかって眠る者など、知らない。
雪那もまた、あの約束で最後の警戒心が溶けたみたいだった。
「……お前は」
呆れたように零しても、膝を退かすことはしない。
そっと銀髪へ触れる。さらりと指を滑る感触に、雪那が気持ちよさそうに身じろぎした。
窓の外では、夏の夜風が静かに木々を揺らしている。
長い夜だった。いつもなら、ただ朝を待つだけの時間。けれど今夜は、膝の上に小さな温もりがある。
その重みだけで、不思議と夜の静けさが遠のいていた。




