怖くない場所
気づけば、窓から差し込む陽光の色が少し傾き始めていた。
術式について語り合う声も、最初の熱気とは違う穏やかさへ変わっている。
紙の上には幾つもの術式図が並び、術師達はそれを囲みながら何度も頷き合っていた。
「本当に勉強になりました……」
年若い術師が、感嘆したように息を吐く。
「循環を“流す”って発想、目から鱗でした」
「今度、共同術式で試してみたいですね」
「薬草庫だけは吹き飛ばすなよ」
「それはもう言わないでください……」
また小さな笑いが起きる。その空気を見つめながら、雪那は不思議な感覚を覚えていた。
怖くない。術について話しているのに、術師達に囲まれているのに、胸が締め付けられない。
誰も失敗を咎めない。失敗することを躊躇わず、何度も挑戦しようとする。研鑽とは、こういう心の在り方を言うのではないかと思う。
力を奪おうと、利用しようとするのではなく、ただ、“同じ術師”として言葉を交わしている。その事実が、胸の奥へじんわりと沁み込んでいく。
「……陛下を救われた時、本当に綺麗でした」
ふいに落ちた声に、雪那は顔を上げた。術師の一人が、少し照れたように笑っている。
「あんなに綺麗な術式を、初めて見ました」
「そのように美しい銀髪も!」
「治癒術師として、会えたことを嬉しく思います」
雪那の呼吸が、僅かに止まる。誰かを救うための術。誰も、雪那から何も奪わない。ただ、言葉が、静かに胸へ落ちていく。
今まで一度も、そんな風に言われたことはなかった。利用される力、搾り取られる力、
全てを失った原因。
雪那にとって治癒術とは、そういうものだった。けれどここでは違う。彼らは憧れるような目で術を語る。誰かを救いたいのだと、真っ直ぐ口にする。
その光景を見ていると、自分の知っている世界だけが全てではなかったのだと、少しずつ理解してしまう。
気づけば、長い時間が過ぎていた。
術師達は名残惜しそうにしながらも、最後にはきちんと頭を下げた。
「本日は、本当にありがとうございました」
「教えていただいたこと、必ず活かします」
「まだ城に滞在されるのであれば、またぜひ」
自分なんかに、こんな風に敬意を持って接してくれるのが嬉しいのに、上手く言葉を返せないのがもどかしい。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
せめて、少しでも伝わればいいと、深く頭を下げ、部屋を出た。
ひんやりとした廊下の空気が熱くなっていた頭を冷ましていく。
壁際には冬竜王が立っていた。長い黒髪を揺らしながら、静かにこちらを見ている。
その少し後ろでは炎竜王が腕を組んでいたが、雪那と冬竜王を見比べると、にやりと笑った。
「俺達は先に行くぞ」
王妃もどこか微笑ましそうに目を細め、白狐と羽雲を連れてその場を離れていく。
ぱたり、と静けさが落ちた。廊下には雪那と冬竜王だけが残される。冬竜王は雪那を見下ろし、短く問うた。
「……どうだった」
雪那はすぐには答えられなかった。胸の奥がまだ妙に温かくて、うまく言葉にできない。
失敗を恐れない術師達も、誰かを救いたいと願う言葉も、銀髪を美しいと言った声音も、怖くなかった。雪那が答えに迷っていると、不意に身体が浮く。
「……っ」
気づいた時には、冬竜王の腕が雪那の腰を抱き上げていた。自然な動作だった。視線の高さが変わり、深紅の瞳が目の前に迫る。
「あ、あの……」
戸惑う雪那を見ても、冬竜王は腕を離さない。ただ静かに真っ直ぐに見つめられて、答えを待たれているのだと気付く。
「……楽しい、時間でした」
「そうか。実りある時間を過ごせたか」
雪那は胸の奥がざわつくのを感じながら、小さく息を飲んだ。
昨日、この腕の中で泣いたこと。生きろと言われたこと。全部、夢みたいだった。けれど今も、こうして当然みたいに抱き上げられている。
雪那は視線を揺らしながら、小さく呟いた。
「……はい。ありがとうございます」
「戻るぞ」
耳朶を揺らす低い声が、やけに優しく聞こえた。そのまま冬竜王の指先が、指通りのいい雪那の銀髪をゆっくり梳く。まるで壊れ物を扱うみたいな手つきに、落ち着かなくなる。
「次は、俺との時間を優先しろ」
命令口調なのに、不思議と冷たくない。独占欲のようでいて、どこか甘やかす響きがある。雪那は目を瞬かせた。
昨日の約束が、今も冬竜王の中に残っている気がした。雪那は何も言えなかった。けれど、不思議と嫌ではなかった。胸の奥に、知らない熱が灯る。
抱き上げられたまま、雪那は小さく頷いた。すると冬竜王は満足したように目を細め、そのまま当然のように雪那を抱えて歩き出した。




