温かな朝
泣き疲れた雪那は、冬竜王の腕の中で静かに眠っていた。
細い肩はまだ小さく震えていて、長い睫毛の先には涙の痕が乾かず残っている。冬竜王は黙ったまま、その目尻へ指先を伸ばした。
赤く擦れ、痛々しく腫れた瞼。そっと撫でるように拭えば、雪那が眠ったまま微かに眉を寄せる
「……ここまでとはな」
暗闇の中に落ちた声には、静かな怒りを孕んでいた。
どこか壊れているとは思っていた。
妙に感情が薄く、痛みに鈍く、生への執着が曖昧だった。
春の国で“奇跡”と呼ばれていた少女。人々を救う慈悲深き存在。そんなものではなかった。ただ壊され続けることでしか、生きることを許されなかっただけだ。
痛みも、尊厳も、生きる意味さえも。全て削られ、奪われ、それでも死ねずに生かされていた。
冬竜王の腕の中で眠る雪那は、ようやく糸の切れた子供のようだった。
眠る雪那の傍では、羽雲が心配そうに身体を寄せている。鼻先で雪那の手に触れ、小さく喉を鳴らした。
その時、部屋の扉が静かに開いた。入ってきたのは白狐だった。おそらく、ずっと外で控えていたのだろう。
眠る雪那を見つめる白狐の表情は、どこか苦しげだった。
「聞いていたか」
「……申し訳ございません」
冬竜王の問いに、白狐は頭を下げる。
ただ、主人に命じられたから、世話をしていただけだった。別に、特別な感情などなかった。人間にしては珍しく逃げ出さない娘だとは、思っていたが、それだけだ。
けれど、違った。
彼女は、逃げなかったのではない。逃げる場所が、どこにもなかっただけだった。
家族も、故郷も、帰る場所さえなく。
冬竜王へ縋り付き、壊れたように泣く声が耳に残って、離れない。あの声を思い出すだけで、胸の奥が締め付けられた。
白狐は冬竜王の前に膝をついた。
「……主様」
冬竜王は視線だけ向ける。白狐は少し迷うように唇を結び、それから覚悟を決めたように口を開く。
「私は……この方を、守って差し上げたいと、思います」
冬竜王の眉が僅かに動く。妖魔は、人間のように損得で仕えることは少ない。利益があるから従うのではない。力があるから傅くのでもない。
ただ、傍にいたい、守りたい。そう思える存在だけが、仕えるに値する。
だからこそ。
“奇跡の巫女”などと呼びながら、一人の娘を使い潰した春の国の在り方は、白狐には恐ろしく思えた。あれは慈愛ではない。ただの搾取だ。その醜悪さは、いっそ恐ろしいほどだった。
冬竜王はしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐く。
「……好きにしろ」
白狐は静かに頭を下げた。
翌朝。
雪那が目を覚ますと、柔らかな温もりが瞼に触れていた。
「……あ」
温かな手巾が、泣き腫らした目元へそっと乗せられていた。そっと手巾をずらすと、白狐が雪那を心配そうに見つめていた。
「起こしてしまいましたか」
「……もう、朝」
昨日までと、どこか雰囲気が違う。ほんの少しだけ柔らかい。雪那はぼんやりと瞬きをした。
泣いて、泣いて、苦しくなるほど泣いた。ずっと押し込めていたものを全部吐き出してたからだろうか、胸が少し軽かった。
冬竜王との約束がある。生きる理由をくれた。終わりを約束してくれた。
あの約束があるから。雪那はまだ、生きていてもいいのかもしれないと、少しだけ思えた。
「痛みはありませんか?まだ腫れています」
「……もう、大丈夫です。ありがとうございます」
その時、部屋の扉が叩かれた。開かれた扉から現れたのは王妃だった。
「雪那様、今日は街へ降りようと思っていたのだけれど――」
そこで言葉が止まる。泣き腫らした目を見て、王妃はふっと困ったように笑った。
「……やめておきましょうね」
「だ、大丈夫です……!」
慌てて起き上がろうとした雪那を、白狐が即座に止めた。
「まだ安静にされてください」
隣では羽雲まで抗議するように鳴く。きゅう、と不満げな声を上げ、雪那の腕へ身体を擦り寄せた。
雪那はそんな二人の様子に目を丸くする。王妃はくすくすと笑った。
「ふふ。仲が良いのですね」
「申し訳ありません、折角予定を空けていただいたのに……」
王妃は気にしていないと穏やかに微笑む。そして、思い出したように手を打った。
「では、一つお願いが。夏の国の術師達に、会ってやってはくれませんか?」
「……私が、でしょうか?」
「えぇ。貴女とお話ししたいと、何度かお願いされていて」
その言葉に、雪那は小さく目を瞬かせた。自分以外の術師と、それも他国の術師と言葉を交わす機会が、まさか訪れるとは思ってもみなかった。




