夜に落ちる
雪那にとってもまた、患者以外の外の人間と、ゆっくり言葉を交わすのは、初めての経験だった。
「折角ですわ、帰る前にぜひ水煌を案内させてくださいな」
「…ご迷惑では、ありませんか?」
「わたくしたちの街を……この街を、好きになっていただけたら嬉しいのです」
笑顔と共に、美しい赤髪が王妃の背中で揺れる。窓から街を眺める瞳は、慈愛で満ちていて、そんな風に愛される街を、見てみたいと思えた。
「……ぜひ、お願いします。私も、見てみたいです」
「えぇ。お約束いたしましょう」
白魚のような指が、雪那の前に差し出される。懐かしい、子どもの頃にした小さな約束が胸に湧き上がる。差し出された指に、雪那は小指を絡めて、泣きそうな顔で笑った。
「さて。まだ起きたばかりだ。本調子ではないだろう。今日は大人しく休んでいろ。またゆっくり話そう」
炎竜王はそう言いながら、立ち上がり、雪那の肩を遠慮なくバシバシ叩く。
「だ、旦那様。病み上がりの娘にその力加減はやめてくださいませ」
「あぁ!? そうか、すまんすまん!ついな!」
王妃が呆れたように袖を引いた。豪快に笑う炎竜王の後ろで、冬竜王は長椅子から立ち上がる。
「炎竜王の言う通りだ。大人しくしているんだな」
「お前はもう少し優しく言えないのか」
「雪那様、ではまた」
軽口を叩き合いながら、三人は部屋を後にした。ぱたん、と扉が閉まる。
急に静かになった室内で、雪那は小さく息を吐いた。羽雲は寝台の上に上がり、雪那の足元で丸くなり、白狐は薬湯の器を片付けている。
「何か必要なものはありますか?」
「……いえ」
「では、少し休んでください。まだ無理は禁物ですよ」
白狐もそう言い残して部屋を出て行った。ぼんやり窓の外を見る。遠くから、金属を打つ音や人の怒鳴り声が聞こえてきた。
騒がしい。不思議に思って窓を開けると、夏の城のあちこちで修復作業が行われていた。
崩れた壁。焼け焦げた塔。砕けた石畳。炎竜王が狂化して暴れた爪痕だ。
人の営みを聞いているのは嫌いでは無かった。春の国では、いつもそれが遠くにあった。開けた窓から、春の国とも、冬の国とも違う、爽やかな風が吹き込む。雪那はその音を聞きながら、微睡むように瞼を閉じた。
昼間だけでは作業が追いつかないのだろう。
夜になっても城の灯りは消えず、人々が忙しなく動き回っている。
雪那は何度か覚醒と睡眠を繰り返し、真夜中にぽっかりと目を覚まし、羽雲を起こさないよう静かに部屋を抜け出した。
回廊を歩き、辿り着いた先は湖へ面した大きなバルコニーだった。夜風が頬を撫でる。目の前には、広大な大湖が広がっていた。
月光を映す水面は静かで、まるで黒い硝子のようだ。そして湖畔には、無数の灯りが散っている。
宿屋。酒場。夜でも動く商隊の詰所。荷運びの船着場。人々の営みの光だった。
春の国では、夜はもっと静かだった。城の中も、街も、息を潜めるように眠っていた。
けれどここは違う。その光景を、雪那は黙って見つめた。
「眠れないのか」
低い声が背後から落ちる。振り返ると、炎竜王が立っていた。昼間のような派手さはない。
黒に近い藍色の外套を羽織り、静かな顔で雪那を見つめていた。
昼間の太陽のような笑顔がなくなるだけで、炎竜王の雰囲気は、冬竜王によく似ていた。炎竜王は雪那の隣へ歩み寄る。
「少し、夜風にあたりたくて」
「あぁ。ここは良い風が吹くだろう」
炎竜王は肩を揺らして笑った。けれどその笑い声も、昼間よりずっと穏やかだった。
「修復が終わるまで、しばらく城は騒がしいだろう。悪かったな」
「いえ……」
雪那は再び湖を見つめる。灯りが揺れている。人が生きている光だった。炎竜王はそんな雪那を横目で見ながら、ふと口を開く。
「身体を治してもらった礼と言っては何だが。どこかへ逃がしてやろうか」
「え?」
「あいつに、突然攫われたと聞いたが」
突然の申し出に、雪那は横に並ぶ炎竜王を見上げる。深い藍色の瞳は、嘘を言っているようには思えなかった。
「春の国でも、秋の国でも、この国でもいい。あいつのいない場所へ。お前ほどの術師なら、生きていけるだろう」
その声音に、打算は無かった。本当に、“選択肢”として差し出している声だった。
雪那は、迷うように何度か瞬きを繰り返す。何か言おうとしては、口を開閉させてやめる。炎竜王は答えが出てくるのを待った。
「……折角の、ご提案ですが、お断りします」
「何故だ?あいつが追いかけてくるのが、恐ろしいか?」
雪那は少しだけ迷うように睫毛を伏せ、それから柔らかく笑った。その表情に、もう迷いはないように見えた。
「……いいえ。炎竜王様。私は、確かに突然攫われました。けれど、その手を取ったのは、私なんです」
「春の国に手を出さないための、交換条件だと言っていたが?」
「はい。でも、理由はどうあれ、あの方は私に手を差し出してくださったんです」
春の国の名前を出しただけで、呼吸が震えていた娘が、どのような境遇だったのかは分からない。けれど、雪那は冬竜王からもらった初めてを、宝物のように話す。その姿を炎竜王は黙って見つめる。
「だから、逃げないと?」
「……はい」
「もう二度と逃げられなくとも?」
「……あの方の、そばにいたいのです」
厄災と恐れられる冬竜王。けれど、冬竜王を語る雪那のその横顔は、どこか最愛の王妃によく似ていた。
炎竜王は優しく笑う。
「そうか。その選択に、悔いがないよう祈っている」
「……ありがとうございます」
「さて、病み上がりの姫君よ。この話はおしまいだ。そろそろ部屋に戻った方がいい。夜風は冷えるからな」
雪那は小さく一礼すると、部屋へ戻っていく。足音が遠ざかる。
静かになったバルコニーで、炎竜王はふっと息を吐き、後ろを振り向くことなく言葉を投げる。
「聞いていたんだろう?」
その声に応えるように、柱の影から冬竜王が現れる。闇からそのまま抜け出してきたような姿に、炎竜王は呆れたように笑う。
「良い女じゃないか」
冬竜王は答えない。ただ、雪那が去っていった方向を静かに見つめていた。
「お前、人間に興味なんか無かっただろうに」
「……気になることがある」
炎竜王は肩を竦める。王達の中でも、抜きん出た力を持つが故に、尊敬と畏怖を一身に受け、誰よりも孤高の存在である男の天秤が、たった一人の存在によって、揺れていた。
「泣かせるなよ、冬の王」
軽く手を振り、去っていく。冬竜王はしばらくその場に立っていたが、やがて静かに雪那の部屋へ向かった。
部屋へ戻ると、雪那はちょうど寝台へ腰掛けたところだった。
扉の音に振り返り、少し目を見開く。
「冬竜王、様……?」
冬竜王は答えない。ただ、ゆっくりと歩み寄る。暗い部屋の中でも輝く紅い瞳が、真っ直ぐ雪那を見下ろした。




