狂化
遥か下方に、陽光を反射する巨大な湖が広がっていた。
四つの国の中央に存在する、大湖。空そのものを溶かしたような蒼い水面の上を、黒塗りの馬車が滑るように進んでいく。
湖上を渡る風は湿り気を含み、冬の国では感じたことのない熱を運んでいた。
「見えてきましたよ」
向かいに座っていた白狐が、窓の外へ視線を向ける。雪那も顔を上げ、窓越しに外を見た。
湖岸に沿って広がる白い街並み。幾重にも張り巡らされた水路。陽光を跳ね返す硝子窓。水辺に沿って連なる建物は、どれも開放的で、冬の国とはまるで違う。
「ここが夏の国の中心地、水煌です。水の都、とも呼ばれています。大湖に面した街で、都市全体に水路が引かれているのですよ」
確かに、街の至る所で大湖から引いた水が煌めいていた。橋の下を小舟が行き交い、人々は薄い衣を揺らしながら水辺を歩いている。
人の営みの熱と、水の涼しさが同時に存在する、不思議な街だった。
だが、その街から少し離れた場所にある白亜の城を見た瞬間、雪那は息を呑む。城の上空だけ、空の色が違った。
夏の日差しには似つかわしくない重たい暗雲が渦を巻き、黒く沈んでいる。
城に近付くにつれ、空気が震え、肌が粟立つ。夏の国の暑さを掻き消すような、寒気がする。治癒術式が、本能的に警鐘を鳴らしている。これ以上近づけば、命が危険に晒される、と。
「あれが……狂化……?」
「かなり進行していますね」
雪那が小さく呟くと、白狐は表情を曇らせた。激しい風に煽られながら、馬車は城の内郭へと降下する。
着地と同時に、控えていた者たちが駆け寄ってきた。
「冬竜王様の御一行ですね。お待ちしておりました」
出迎えたのは、人間の青年だった。周囲にも多くの人間たちの姿がある。妖魔ばかりだった冬の国とは違い、この国では人間と妖魔が半々ほどらしい。
服装も軽やかだった。暑さの厳しい夏の国でも、薄い布地を重ねた衣服は動きやすそうで、どこか涼しげだ。
「冬竜王様はすでに中へ。ご案内――」
そこまで言いかけて、馬車から降りてきた雪那を見て、青年の言葉が止まる。馬車から降りた拍子に、雪那の銀糸が肩からさらりと零れ落ちた。
夏の国の眩い陽光を浴びたその髪は、まるで月光を溶かしたように淡く輝く。周囲の空気がざわめいた。
「あれが、冬竜王が奪ったという……」
「春の国の……」
「“奇跡の巫女”……?」
囁くような声が後方から漏れる。雪那を見定めるような視線が集まる。だが、その前に。
「案内を」
白狐が庇うように雪那の前に進み、静かに口を挟む。はっと我に返った青年は、慌てて頭を下げた。
「し、失礼いたしました。こちらへ」
案内され、雪那たちは城の奥へ進む。廊下を歩くほどに、空気が重くなっていった。
熱い。息苦しいほどの熱気が肌にまとわりつく。まるで城そのものが熱を持っているようだった。
やがて、巨大な扉が開かれる。
雪那は目を見張った。
玉座の間には、禍々しい気配が満ちていた。
空間の四隅には冬竜王の配下たちが控え、二人の王の力が外へ漏れ出さないよう結界を維持している。
空気そのものが軋んでいた。
灼けるような熱気の中で、ただ一人。冬竜王だけが、いつもと変わらぬ静かな顔で立っている。
その対面に、夏の王は、いた。
説明されずとも、すでに狂化が進んでいるのは目に見えていた。瞳は真紅に染まり、溢れ出した魔力が自らの肉体を焼いている。裂けた皮膚から血が滲み、それすら高熱で蒸発していた。
人の形を保っていることすら、不思議なほどに。
一歩、結界に近付いたところで、白狐が制止するように肩を掴む。
「雪那様、あの方が夏の国の王、炎竜王様です」
「あの人は……冬竜王様は、お一人で、止めるんですか?」
「……えぇ。それを出来るから、主様はお一人で立っているのです」
結界から漏れ出した熱気が、びりびりと肌を焼くようだった。
狂化した炎竜王の魔力は制御を失い、空気そのものを灼いている。床には焦げ跡が走り、赤熱した血が蒸気を上げていた。
灼熱の中、冬竜王だけが、熱を感じていないかのように静かだった。
黒髪が熱風に巻き上げられ、竜のように背中で揺れる。紅い瞳は、暴走し、苦悶の表情で荒れ狂う炎竜王をまっすぐ見据えている。
「——まだ、理性は残っているか、炎竜王」
炎竜王が真紅に染まった瞳をカッと見開き、獣のように唸った。
「……っ、黙れェえ……!!」
轟、と爆炎が弾ける。玉座の間を覆っていた結界が軋み、四隅で支える妖魔たちが苦悶の声を漏らした。
熱波が吹き荒れ、炎竜王の皮膚が内側から裂ける。溢れ出す魔力に、肉体が耐え切れていない。
赤く染まった瞳には、もう正常な光はほとんど残っていなかった。
「近付けば焼け死にますぞ!」
「一度態勢を整えるべきでは!?」
「これ以上は炎竜王様のお身体が保たない!!」
夏の国の術師の叫びが響くが、冬竜王は何も聞こえていないかのように、一歩。また一歩、灼熱の中心へ進んでいく。
そのたびに、足元から霜が広がった。焼けた床を白く凍らせ、暴走した熱を押し潰すように冷気が侵食していく。
炎竜王が口から血を吐き出しながら吼える。
「来るなァァァ!!」
炎竜王の足元から爆ぜた炎が、竜の顎のように、冬竜王へ喰らいつこうと膨れ上がる。
だが、炎は、届く前に凍り砕けた。
白い氷片が宙へ散り、灼熱の中で瞬く間に蒸発する。二人の王の力が、真正面から衝突していた。
「……限界か」
冬竜王が静かに呟く。結界の外で立ち尽くす雪那の背筋を、ぞくりと冷たいものが走る。




