お尋ね者
先日より、
腐臭は強くなっていた。
最初は、息を止めないと立っていられなかった。
だが今は違う。
気づけば、普通に息をしている。
ーーそれが一番、気味が悪い。
無数の蠅が、空を埋めていた。
こんなにいたのかと疑うほど、
黒い点が、あたり一面に蠢いている。
一歩、踏み出すたびに――
ぶわり、と舞い上がり、
顔に、腕に、まとわりつく。
餌を奪うな、と言わんばかりに。
戦場が、近づく。
空は澄み、朝の光はやわらかい。
それでも、この場所だけが、濁っていた。
俺たちは、死体の最も集中する場所に立つ。
無言で、鍬を打ち込む。
土が跳ね、音が鈍く響く。
爽やかな朝のはずだった。
だが、その気配は、どこにもない。
ただ、臭いと、羽音と、
重たい空気だけが、まとわりつく。
――ここが。
俺は思う。
人生で、一番、惨めな場所だと。
横で、茂と長が黙々と穴を掘る。
言葉はない。
少し離れて、れんと猿が動く。
倒れた者のそばを巡り、装備を外していく。
すべてが、淡々と進む。
小一時間。
やがて、土は大きくえぐられ、
人を飲み込むには足る穴が、形を成していた。
俺たちは、近くから順に運ぶ。
一体ずつ、腕を取り、足を持ち上げる。
重みが、そのまま残っている。
穴の縁まで来ると――
放る。
落ちる音が、鈍く響く。
本当は、丁寧にやりたい。
だが、この数では、どうにもならない。
「……」
経を唱えながら、手だけが動く。
放る。
また、放る。
声と動きが、ずれていく。
十二体。
穴は、すぐに満ちた。
だが、振り返れば――
まだ、倒れたままの列が続いている。
順番を待つように、静かに横たわっている。
俺たちは、掘り返した土を戻す。
ざらり、と音を立てて、形が消えていく。
やがて土は盛り上がり、
ひとつの山になる。
そこに、墓があることを示すように。
俺は、ふと顔を上げた。
遠くの山並み。
あれも――
同じように、
亡骸の上に立っているのかもしれない。
そんな、くだらない考えがよぎる。
風が、静かに通り過ぎた。
……
場所を移す。
同じように、土に鍬を打ち込む。
乾いた音が、また繰り返される。
単調な動きの中で、
ふと、昔の話がよぎる。
賽の河原。
石を積めば、ここから出られると言われ、
必死に積み上げる。
だが、積み上がった瞬間、鬼に壊される。
終わらない。
何度やっても、同じことの繰り返し。
――俺のやっていることも、同じではないか。
供養しても、また戦が起きる。
死が増え、蠅が群がる。
手を止めることはできない。
だが、終わりも見えない。
土は、ようやく半分ほど掘り下がった。
そのとき――
「助けてくれ!」
猿の声。
鋭く、場を切り裂く。
俺はすぐに鍬を握り直し、穴から飛び出す。
音のした方へ駆ける。
少し、離れている。
――あの野郎。
近くにいろと言ったはずだ。
息を詰め、足を速める。
数分、息を切らして走る。
木立を抜けた先――
そこに、猿がいた。
腰を抜かし、後ずさるように座り込んでいる。
その前に、一人の男。
浪人のような風体。
刀を抜き、こちらを睨んでいる。
俺は足を止め、鍬を構える。
「どうした、猿」
声を張る。
「こ、このオッサンが……愚劣な輩め、成敗するって……!」
猿は今にも泣き出しそうな顔で叫ぶ。
俺は視線を男に向ける。
「我らは旅の僧。ここで供養しておる。刀を納めてはくれぬか」
風が、間を抜ける。
男の目は、血走っていた。
「愚劣な……愚劣な……僧に化け、死体を漁るとは……愚劣な!」
言葉が、吐き捨てられる。
一拍。
俺は息を吐き、
その場で静かに腰を下ろした。
鍬を脇に置き、
座禅を組む。
「……じゃあ、切れ」
短く言う。
そのまま、目を閉じる。
読経を始める。
低く、揺れない声。
猿が慌てて肩を揺さぶる。
だが、俺は応じない。
声だけが続く。
やがて――
猿も動きを止める。
諦めたように、その場に座る。
ぎこちなく足を組み、目を閉じる。
小さく、経をなぞりはじめる。
風が吹く。
刀の気配と、読経の声が、
静かにぶつかり合っていた。
やがて、足音が重なる。
れんが、茂が、長が、後に続く。
俺と猿の背後で、同じように座を組む。
読経が、少しだけ厚みを持つ。
その前で――
男の視線が揺れる。
きょろきょろと、周囲を見回し、
やがて、振り上げていた刀が、ゆっくりと下がる。
力が抜ける。
その瞬間――
(ぐぅ……)
腹の音が、妙に大きく響いた。
静寂の中で、ひどく現実的な音。
――そうか。
俺は、目を閉じたまま、懐に手を入れる。
干し柿をひとつ取り出し、差し出す。
男は刀を持ったまま、
無言でそれを受け取る。
ためらいもなく、口に運ぶ。
噛む音が、かすかに聞こえる。
れんが、そっと竹筒の水筒を差し出す。
男は何も言わず、それを受け取り、
喉を鳴らして水を飲む。
俺は、読経を止めない。
声だけが、場に残る。
やがて――
「……すまぬ」
男の声が落ちる。
「本当に……供養を行っていたようだな」
刀は、もう振り上げられていなかった。
風が、ひとつ抜ける。
「では、切らぬのか?」
俺は目を開け、静かに問う。
男はしばし黙り、
やがて、刀を鞘へと納めた。
「あぁ……供養をしていたなら、切る道理はない」
金属の音が、かすかに響く。
俺は小さく頷き、
手を上げる。
それだけで、読経は止む。
場に、静寂が戻る。
「戻るぞ」
一言、落とす。
誰も何も言わない。
それぞれが立ち上がり、
来た方向へと歩き出す。
猿は一度だけ男を振り返り、
すぐに視線を戻す。
再び、鍬の音が待つ場所へ。
足音だけが、静かに重なっていった。
……
鍬の音が、途切れずに続く。
穴を掘る。
満ちれば、放る。
土を戻す。
同じ動きが、何度も繰り返される。
汗が流れ、
手のひらは重くなっていく。
それでも、止まらない。
やがて――
日が高くなるころ、
残っていた影は、ほとんど消えていた。
土の山が、いくつも並ぶ。
埋葬は、あらかた終わる。
れんと猿が集めた装備品が、
一か所に積み上げられていた。
布や鉄が混ざり合い、
乱雑な山を形作っている。
そこへ、あの男が歩み寄る。




