第9話 未来の手札
十月六日。大坂城、西の丸の書院。
障子を透かした朝の光が、畳の目を白く縁取っていた。庭の楓は、先日までひと枝だけだった赤が、ひと夜でずいぶん広がっている。風が吹くたび、葉の擦れる音が、乾いた紙のように鳴った。
秀頼は、文机の前に座っていた。広げた紙には、まだ一字も書かれていない。
「内府殿は、近いうちに朝廷へ動きます」
向かいに控える玄斎の眉が、わずかに動いた。
「将軍職を望まれる、と」
「はい。公家の誰かを通じて、内意を伝えるはずです。吉田兼見殿か、あるいは近衛家」
「根拠は」
「勘、としておいてください」
それ以上は、言えなかった。
関ヶ原の後、家康は将軍になる。頭に刻まれた、動かしがたい筋道だった。ただ、この世界の家康は、戦に勝っていない。それでも同じ道を歩むのか。確かめる方法は、一つしかなかった。
玄斎は、短く頭を下げた。
「三日、お待ちを」
襖が、音もなく閉まる。楓の葉が、また鳴った。
三日後の夕刻。
西日が障子を茜に染め、書院の畳に、格子の影が長く伸びていた。
「申し上げます」
玄斎の声は、いつもどおり低い。
「近衛家の屋敷に、本多佐渡守の使いが出入りしております。昨夜は、金子の包みを携えておりました」
「……やはり」
「若君の仰せのとおりでございました」
玄斎は、ほんの一瞬、秀頼を見た。測るような目だった。
胸の奥の熱を、顔に出さずにおいた。当たった。知っていることは、使える。
だが同時に、冷たいものが背を伝った。家康は、もう動き始めている。
「刑部殿に、お伝えください。朝廷への備えが要ります」
「承知」
玄斎が下がると、入れ替わりに、小平太が盆を捧げて入ってきた。
「わ、若君。お茶を」
湯呑の中で、細い湯気が揺れている。
盆を置くとき、小平太の手が止まった。
「……若君。今日は、お顔が、いつもより固うございます」
「そうでしたか」
「は、はい。いえ、気のせいかもしれませぬが」
少年は、慌てて頭を下げ、小走りに廊下を去っていった。足音が遠ざかる。
湯気が、ふっと細くなった。
何でもない一言が、胸に残った。
翌朝。福島正則の屋敷。
門をくぐると、風を切る音が聞こえた。
ひゅう、ひゅう、と、重い刃が空気を裂く。庭の中央で、正則が上半身をはだけ、大太刀を振っていた。冷えた朝の空気に、肩から白い湯気が立ち昇っている。踏み込むたび、足元の砂利が、じゃり、と鳴った。
「おお、若君!」
太刀が止まり、声が庭に響いた。
「よう来られた。お待ちくだされ、すぐ汗を拭いますゆえ」
「どうぞ、そのままで」
縁側に座ると、正則は、どかりと隣に腰を下ろした。近づくだけで、体の熱が伝わってくる。高い空に、薄い鱗雲が流れていた。
「実は、お伺いしたいことがあって」
「何でござる」
言葉を選ぶあいだに、庭の隅の柿が、一つ、枝から落ちた。
史実の正則は、のちに家康に寄る。秀吉の恩を口にしながら、豊臣を見捨てる。それは、苦い記憶として頭に刻まれていた。
この人も、いずれ、離れるかもしれない。
「佐渡守殿から、宴席のお誘いは、ございましたか」
「ああ、あれか」
正則は、ふんと鼻を鳴らした。
「来た。断った」
秀頼は、目を見開いた。
「断られたのですか」
「当たり前じゃ。あの爺の酒など、飲めるか」
正則は、大太刀を地面に突き立てた。刃が砂利に食い込む、鈍い音がした。
「あやつは、黒田や細川、浅野の屋敷に、足繁く通っておると聞いた。まったく、見苦しい。評定で若君に槍を収めた者どもが、すぐさま内府の犬に尻尾を振るとは」
「……福島殿」
「それがしは、許せぬ」
声が、低くなった。
「関ヶ原で、殿下の旗に槍を向けようとしたことが、悔しゅうて、夜も眠れぬ。あの時、若君が許してくださったから、それがしは、ここに居れる。……その恩を、忘れるものか」
正則の目が、わずかに潤んだ。
「それがしは、不器用な男でござる。治部を許せぬ気持ちは、今も変わらぬ。だが、若君の裁きに従うと決めた。それが、それがしの筋じゃ」
返す言葉がなかった。
史実の正則は、離れる。それは、確かな記憶だった。だが、今、目の前にいる男は、離れそうにない。
違う。歴史は、すでに、違う道に入っている。
「……ありがとうございます」
やっと、言えた。
「礼など、いらぬ。当たり前のことを、しておるだけじゃ」
大きな手が、秀頼の頭を、わしづかみにした。四話で采配を取り落とした、あの手だった。
「若君は、ちと、背負いすぎじゃ。子どもは、もっと、飯を食って、寝ろ」
「……はい」
頭を撫でられる感覚が、妙に温かかった。
屋敷を出ると、高かった空に、いつの間にか厚い雲が広がっていた。地面の影が、薄れていく。
玄斎が、無言で後ろに続いた。
「玄斎」
「は」
「私は、間違えました」
声が、少しだけ震えた。
「福島殿は、離れると思っていました。思い込んでいたのです」
玄斎は、何も言わなかった。足音もなく、ただ、少し後ろに付いてくる。
石畳を渡る風が、冷たい。
「若君」
しばらくして、低い声が届いた。
「鉢屋の里では、こう申します。山の天気は、昨日の空で読んではならぬ」
「……昨日の空」
「今日の雲を、見よ、と」
それだけだった。だが、胸の奥の重さが、わずかに軽くなった。
歴史を知っていることは、武器だ。だが同時に、目を曇らせる枷でもある。
見上げた雲の切れ間から、細い光が、一筋だけ落ちていた。
その夜。
行灯の火が、細く揺れていた。
玄斎が、一通の書状を差し出した。
「黒田如水殿より。二通目にございます」
封を切ると、同じ墨の、几帳面な文字が並んでいた。
『条件を、お伝えしたく。若君のお出ましを、お待ち申し上げております』
それだけだった。
書状を、行灯の火にかざす。紙が、淡く透けた。
如水の笑みが、頭に浮かんだ。あの老人は、自分の秘密に、触れかけている。次に会えば、もっと深く踏み込んでくるだろう。
それでも、行かねばならなかった。
障子の向こうで、楓が鳴っていた。闇の中では、あの赤も、もう見えない。葉擦れの音だけが、いつまでも続いていた。
旗の外の力が、要る。
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