第10話 如水の条件
十月十一日。黒田屋敷、離れの茶室。
庭の楓は、数日のうちに、すっかり色を変えていた。赤というより、燃え残りの炭のような深い色で、風が吹くたびに、一枚、また一枚と、苔の上へ落ちていく。
炉の釜が、低く鳴っていた。遠い山の風のような音が、狭い座敷の底を、静かに流れている。
如水は、その音の向こうで、茶筅を回していた。
痩せた手が、驚くほど滑らかに動く。秀頼が座ると、黒い茶碗が、畳の上をすっと滑ってきた。
「毒は、入っておりませぬ」
如水は、微笑んだ。
「入れる理由も、今は、ござらぬゆえ」
「今は、ですか」
「人の世は、移ろうものでござる」
秀頼は、茶碗を両手で取った。苦い。だが、喉には残らなかった。
「結構なお点前です」
「恐れ入る。昔、太閤殿下に、よく点てて差し上げました」
炭が、ぱち、と爆ぜた。
「殿下は、茶を飲みながら、よう申されました。『官兵衛、おぬしが一番、怖い』と。冗談めかしておられたが、目は、笑っておられなんだ」
如水は、茶筅を置いた。
「それゆえ、剃髪いたしました。如水と名を改め、領地も、ほどほどに。野心など、とうに捨てたと、申し上げるために」
釜の音が、わずかに高くなった。
「捨てたつもりでござった。……関ヶ原までは」
秀頼は、黙っていた。先日の書院で見た笑みが、同じ顔で、目の前にある。
如水は、窓の外へ目をやった。障子の白い光が、昼下がりの角度で、畳の半ばまで伸びている。
「お出ましの理由を、当ててみましょうか。旗の外の力が、欲しい」
息が、止まった。
「若君は、先日、学ばれた。旗は、一度しか効かぬ、と。佐渡守めの入れ知恵は、的確でござる」
「ご存じなのですか」
「あの老人とは、古い付き合いゆえ。やり口は、手に取るように分かります」
如水は、茶碗を二つ、並べ直した。
「ならば、手土産を差し上げましょう。内府は、すでに近衛家の門を叩いておる」
「……知っております」
「知っておられる。結構。ですが、その先は、ご存じか」
声が、一段、低くなった。
「内府が本当に望むのは、将軍の座そのものではござらぬ。それを、子に譲ることでござる。世襲させ、豊臣と同じ高みに、徳川を置く」
秀頼の背に、冷たいものが走った。
史実の流れだった。家康が、秀忠に将軍職を譲る。徳川が、天下の主として固まっていく筋道。
この老人には、見えているのだ。何の知識もなく、ただ、人の欲を読んで。
「ならば、徳川に先んじて、朝廷を押さえなされ。将軍とは、武家の頂。ならば、公家の頂は、豊臣が取る」
「公家の、頂」
「太政大臣。あの座を、豊臣の家に固めてしまえばよい。世襲の勅許を、得れば」
炉の火が、赤く息づいた。
見事な策だった。如水の策は、いつも、見事なのだ。
「さて、ここからが、本題でござる」
如水は、指を二本、立てた。
「条件は、二つ」
「条件」
「わしが、若君の師となるための条件にござる」
笑みは、変わらない。ただ、その奥の暗さだけが、深くなった気がした。
「一つ。次の舞台は、わしが作る。若君は、舞台の中央に、旗を立てておられればよい。采配は、わしに預けていただく」
「それは」
「二つ。若君が、徳川と戦をなさりたくないのは、承知しております。ですから、戦をなさらずに済むようにいたしましょう」
如水は、穏やかに言った。
「戦の火種は、わしが、東西に仕込みます。誰が火をつけたか、誰にも分からぬように。燃え上がる直前に、若君が旗を掲げて止める。それを、何度も繰り返す」
「何度も……」
「止められる者は、天下に、若君ただ一人。そうなれば、東も西も、若君の旗なしには、息もできませぬ」
雲が、日を遮ったのか、茶室が、すっと翳った。
「……これが、戦をせぬまま、天下を取る道にござる」
美しい策だった。戦を望まぬ者に、戦を避けたまま、天下を差し出す。これ以上の誘惑は、ないかもしれない。
だが、秀頼は、一つの事実に気づいていた。
「如水殿」
「何でござる」
「火種を仕込めば、必ず、誰かが死にます」
如水の笑みが、わずかに動いた。
「その死は、私の旗では、止められない」
「止められぬ火も、ございましょうな」
「ならば、承知できません」
釜の音が、ふっと遠のいた。
如水の顔から、笑みが、すべて消えた。
筋肉が、糸を切られたように落ちる。瞳の奥で、何かが、音もなく軋んだ。
それは、まばたき一つの間だった。
だが、秀頼は、はっきりと見た。この老人は、狂っている。それも、静かに、完全に、理性を保ったまま。
「……そうでござるか」
次の瞬間、如水は、また笑っていた。雲が切れ、障子に光が戻る。
「では、条件を、一つに絞りましょう」
「一つ」
「采配は、預けなくてよい。ただ、わしの策を、一度、見ていただきたい」
如水は、茶碗を拾い上げた。
「見るだけでござる。実行は、若君の御意のまま。いかが」
長い沈黙が落ちた。炭が、静かに灰へ崩れる。
如水を、信じてはいけない。それは、確かだった。だが、この老人の策は、天下で一番、よく見える。そして、自分には、頼れる大人が、いない。
疑いながら、使うしかない。
「見るだけ、ならば」
秀頼は、はっきりと言った。
「ただし、実行の最終の判断は、私が持ちます。私が止めると言ったら、止めていただきます」
「ほう」
如水の目が、細くなった。
「最終の判断は、若君が」
「はい」
「結構」
如水は、深く頭を下げた。肩が、小さく震えていた。笑っているのか、他の何かか、分からなかった。
「太閤殿下は、わしを、いちばん怖がっておられた」
顔を伏せたまま、如水が言った。
「若君は、どちらに似ておられますかな。殿下か。それとも、殿下が怖がった、わしの側か」
答えなかった。
答えられなかった。
廊下に出ると、夕風が冷たかった。
庭の楓が、風もないのに、一枚、散った。
長政が、碁盤の前に座していた。掌で、白石を一つ、転がしている。
「若君」
「長政殿」
「父は、いかがでした」
「……よい茶を、いただきました」
長政は、小さく息を吐いた。
「父は、拙者の意見に、一度も賛成したことがござらぬ。そして拙者も、父の意見に、一度も従ったことがない」
「そう、聞いております」
「それが、黒田の強さでござる」
長政は、掌の白石を、盤の上に置いた。先日、秀頼が置いた白石の、すぐ隣だった。
二つの白が、並んでいる。
「若君。父を、よろしくお願い申し上げます」
意味が、すぐには分からなかった。
長政の顔には、何の表情も浮かんでいない。ただ、その目は、遠く、離れの茶室の方を見ていた。
屋敷を出ると、待っていた玄斎が、すっと近づいた。
「若君。ご報告が」
「何ですか」
「千姫様の御一行が、明後日、大坂へ到着されるとのこと」
秀頼は、足を止めた。
「早い」
「はい。内府は、輿入れを待たず、まず千姫様を先に送ると」
「……供は」
「徳川の侍女が、十余名。うち数名は、目付の役目を負っておられる様子」
外圧だ。すぐに分かった。
千姫の到着と同時に、徳川の目が、この城の中に入る。如水の策も、朝廷への動きも、すべて、見られる。
空が、茜に染まっていく。
大坂城の天守が、夕日の中に、黒く浮かんでいた。烏が、一羽、その上を横切った。
旗は、一度しか効かない。
ならば、次は、何で立つのか。答えは、まだ出ていない。
ただ、一つだけ、決まっていた。
疑いながら、使う。
あの老人を。
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