第11話 かかさま
十月十三日。大坂城、大手門。
夜明けの雨が上がったばかりの石畳は、まだ黒く濡れていた。門脇の木槿は、あれほど遅く咲いていた最後の一輪が、昨夜のうちに落ちたらしい。白い花びらが、水たまりの縁に貼りついている。
遠くから、車輪の軋む音が近づいてきた。
輿が一つ。その後ろに、徳川の紋を染めた侍女の列が、十余名。足音は揃っているのに、誰も顔を上げなかった。
門の内で、淀殿は扇を握りしめていた。
「来た」
声が、わずかに上ずっている。昨夜から何度も、東向きの棟を見に行った人だ。畳の替えまで、自分の目で確かめた。
輿が止まり、侍女頭が先に降りた。
六十に近い、小柄な老女だった。紺の小袖に、白髪を低く結っている。背筋が、定規を当てたように真っ直ぐだった。濡れた石畳を踏む足音に、一つの乱れもない。
「千姫様付、侍女頭のよねにございます」
深く頭を下げた。目の端だけが、城の内を測るように、素早く動いた。
「長旅、大儀であった」
淀殿が応じる。その視線は、すでに輿の簾に向いていた。
簾が上がる。
三つの幼子が、侍女の腕に抱かれて降りてきた。小さな足袋が、濡れた石畳に触れる。千姫は、よねの袖の端を、両の手でぎゅっと握りしめた。大きな目が、門を、天守を、見知らぬ大人たちを、順に追っていく。
口は、固く結ばれていた。
秀頼は、母の斜め後ろに立っていた。七つの身には、この幼子が、あまりにも小さく見えた。
淀殿が、ゆっくりと膝をついた。
濡れた地面に、裾が広がるのも構わず、千姫の目の高さまで、身を落とす。
「よう参られた」
声が、驚くほど柔らかかった。関ヶ原から戻った夜に、秀頼の布団の横で聞いた声に似ていた。
「わらわは、淀じゃ。そなたの母上の、姉にあたる」
千姫は、じっと淀殿の顔を見上げた。
睫毛が、小さく震えている。袖を握る指に、力がこもった。
やがて、ぽつりと、幼い声が落ちた。
「……かかさま?」
門前の空気が、止まった。
よねの顔から、血の気が引く。慌てて身を屈め、何か言い聞かせようと口を開いた。
淀殿が、目だけで、それを制した。
扇が、ゆっくり下ろされる。
「そうじゃ」
声が、掠れていた。
「そう呼んでもよい」
千姫の唇が、ほどけた。
よねの袖を放し、小さな手が、淀殿の方へ、おずおずと伸びる。淀殿はその手を取り、そっと包み込んだ。
秀頼は、母の袖が震えているのに気づいた。
小谷で、北ノ庄で、何度も失ったこの人が、三つの子の手のぬくもりに、立ち尽くしている。
水たまりに、雲の切れ間の光が落ちた。散った木槿の花びらが、白く光っていた。
昼下がり。本丸、大広間。
淀殿は、千姫を奥へ連れ戻していた。広間には、秀頼と吉継、信繁。向かいに、よね一人が座している。
障子越しの光が、畳に格子の影を落とす。庭の楓が、風に鳴った。
「では、申し上げます」
よねは、静かに懐から書付を取り出した。
「千姫様の御居所には、徳川の侍を二名、詰めさせていただきます。また、千姫様のもとへ届く文、千姫様より出る文は、すべて、私が検めます」
吉継が、杖を握る手に力を込めた。
「それは、つまり」
「目付の務めにございます。将軍家の御意を、お伝えしたまで」
淡々とした声だった。感情の抜けた、役目の声だった。
そこへ、襖が勢いよく開いた。
「聞き捨てならぬ」
淀殿だった。奥から、足音も荒く入ってきて、よねの前に立つ。
「文を検めるじゃと。ここは、豊臣の城じゃ。わらわの妹の子の文を、他家の者が開くか」
「畏れながら」
「畏れるな」
扇が、畳を打った。
「千は、わらわの子も同然。この子の文に、手を触れることは許さぬ」
空気が張りつめる。庭の楓が、ざわりと鳴った。
よねは、顔色を変えなかった。ただ、膝の上で重ねた手が、わずかに白くなった。
「御袋様」
秀頼が、口を開いた。
幼い声が、広間に静かに落ちる。
「よね殿の務めは、承知いたしました」
「秀頼」
「ただし、一つ、お願いがあります」
秀頼は、よねに向き直った。
「千姫様は、三つで、ご両親のもとを離れました。母代わりが、必要です」
よねの目が、わずかに動いた。
「よね殿には、千姫様の母代わりを、お願いしたい。居所に留まり、お世話をし、夜は枕元におられてください」
「……私が」
「お役目と一緒に、お願いします。千姫様の文を検めるのは、よね殿のお務め。それならば、検めたあとに、千姫様の言葉を、私にも聞かせていただけますか」
吉継が、小さく息を吐いた。信繁が、袖の陰で口元を緩めた。
役目の名で縛りながら、役目の名で、味方に引き込む。監視をする者に、世話をする者の顔を、同時に着せたのだった。
よねは、長い間、黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……承りました」
声が、わずかに低くなっていた。
夕刻。千姫の居所。
東向きの棟は、日が落ちると、薄い藍色に沈んだ。縁側から見える庭の楓が、夕闇の中で、墨のように黒い。
侍女たちが、荷を解いていた。小さな着物、小さな櫛、小さな人形。一つ一つが、丁寧に畳の上へ並べられていく。
行灯に火が入った。
その明かりの中で、よねは、一つの小箱を手に取った。
蓋を開ける。
中には、折りたたまれた一通の文があった。表には、細い、女の文字。
『姉上様へ 江』
よねの手が、止まった。
これは、徳川家の目付として、検めなければならないものだ。開けなければならない。中身を、書き留めなければならない。
縁側の向こうで、淀殿が、千姫の寝所の灯を見つめている後ろ姿が見えた。
よねは、文を、そっと小箱に戻した。
蓋を閉じ、侍女に、静かに告げる。
「これは、御袋様へ、直にお渡しします」
侍女が、驚いて顔を上げた。
「検めなくて、よろしいのですか」
「あれは、文ではございません」
よねは、背を向けたまま言った。
「返事、でございます」
行灯の火が、ふっと揺れた。
その夜、淀殿の居室に、一通の文が届いた。
『姉上様。千を、どうぞよろしくお願い申し上げます。あなたに祝いの文をいただいたとき、すぐに返事ができず、申し訳ありませんでした。江』
淀殿は、読み終えて、長い間、動かなかった。
やがて、扇を畳に置き、袖で、静かに目を覆った。
夜。本丸の廊下。
闇の奥から、足音が近づいてきた。玄斎が、膝をついた。
「若君。清洲より、内府殿の書状が参りました」
「……読みます」
封を切る。見慣れた、老人の手だった。
『先日の和睦の筋、承知申し候。ついては、拙者、朝廷に仕え、将軍の職を拝さんことを望む。豊臣家に異存なきや、十日のうちにご返答を賜りたし。内府』
紙が、指の中で、かさりと鳴った。
九日前に予測した、そのままだった。近衛家への金子。吉田兼見の屋敷。家康は、すでに朝廷の門を叩き終えている。
そして、異存を問う、という形で、豊臣に先に頭を下げさせようとしている。
「十日」
玄斎が、低く言った。
「如水殿の策を、お聞きになるのは、今かと」
「ええ」
廊下の窓の向こうで、雲が切れた。月が、庭の楓を白く照らしていた。葉の影が、石畳の上で、ゆらゆらと揺れている。
如水の策を、使うのか。
それとも、自分で決めるのか。
書状を懐にしまい、秀頼は、奥へ戻る足を、ふと止めた。
東向きの棟の灯りが、まだ、一つだけ点っていた。
小さな影が、障子に映っている。誰かが、幼子の背を、ゆっくり撫でている影だった。
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