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旭日を纏いし魔童 ~豊臣秀頼、関ヶ原に立つ~  作者: エピファネス


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12/12

第12話 二股の老公家

 十月十六日。大坂城、本丸の書院。


 あの楓が、とうとう枝だけになっていた。


 庭の苔の上に、散った葉が赤黒く積もっている。朝の冷えた光が、障子の格子を透かして、畳に細い影を落としていた。


 秀頼の前に、二通の書状が並んでいる。


 一通は、三日前に届いた家康の書状。『十日のうちに、ご返答を賜りたし』。期限まで、あと七日。


 もう一通は、昨夜、如水から届いた。たった三行しかなかった。


『異存なし、と答えられよ。ただし条件を付けられよ。将軍は武家の頂、公家の頂は豊臣に。その証文に、近衛の老人の判が要る』


「近衛の老人」


 吉継が、杖に手を置いたまま呟いた。


「近衛前久殿、にござるな」


「はい」


「太閤殿下が関白となられた折、家名を貸された方。お名だけは、存じておりまする」


 信繁が、腕を組んだ。


「ですが若君。如水殿は、そこまでしか申されておりませぬ。その先を、誰が運ぶのです」


「運びません」


 秀頼は、書状を畳んだ。


「手筋は、借ります。ただ、足は、自分で運びます」


 吉継と信繁が、顔を見合わせた。


「京へ、参ります」


 障子の外で、風が枝を鳴らした。



 午後。奥御殿。


 淀殿は、縫い物の手を止めて、秀頼を見た。千姫の小さな帯の端が、膝の上に垂れている。


「……京へ、と申したか」


「はい。事前に、申し上げに参りました」


 淀殿の口元が、ひくりと動いた。


「そなた、それを、わらわとの約束の守り方と呼ぶ気か」


「はい」


「……生意気な」


 針が、布に、ぷつりと刺さった。


「いつ発つ」


「明朝。二日で戻ります。供は、信繁と玄斎、それに小平太を」


「小平太も連れてゆくのか」


「京の見聞を、広げてやりたく」


 淀殿は、小さく鼻を鳴らした。


「よい。ただし、毎日、文を寄越せ。食事のことも、一行、書くのじゃ」


 秀頼は、頭を下げた。畳の端で、千姫の小さな人形が、静かに横たわっていた。



 十月十七日、午後。京、近衛殿。


 京の紅葉は、盛りであった。


 築地塀の向こうから、錦を広げたような枝が、通りへ垂れかかっている。大坂の楓が散りきったあとに見ると、その赤が、目に痛いほどだった。小平太が、口を半ば開けて見上げていた。


「わ、若君。京は、紅うございます」


「そうですね」


「大坂の、百倍、紅うございます」


「小平太。口を閉じなさい」


 玄斎の低い声に、少年は慌てて顎を引いた。


 屋敷は、思いのほか質素だった。門の瓦は継ぎ接ぎで、築地の白は、雨に剥げている。かつて関白を出した家の門だと思うと、妙に胸が詰まった。


 奥の座敷に通される。


 障子が開くと、薫物の香が、ふっと流れてきた。


 床の間に、鷹を描いた小さな軸が掛かっていた。その脇の文机に、墨の乾ききらぬ短冊が、数枚、重なっている。


 小柄な老人が、一人、座していた。


 六十を過ぎている。白い眉の下で、目だけがよく動く。剃り上げた頭に、冬の光が、鈍く映っていた。背後の庭では、紅葉が燃えるように揺れている。


「近衛前久にござる。……いまは、龍山と名乗っており申す」


 声は、低く、乾いていた。


「豊臣の若君が、お忍びでお見えとは。公家の屋敷は、守りが薄うござってな。お供の数を見れば、ご覚悟のほどが、よう分かり申す」


「お目通り、かたじけのうございます」


「お座りなされ。茶は、薄うござるが」


 茶が出た。確かに、薄い。小平太が、そっと眉を寄せた。


「あの鷹は、龍山殿のお好みですか」


 秀頼が尋ねると、老人は、ふっと目尻を下げた。


「ほう。目に留められたか。鷹は、よい。人よりも、正直でござる」


「鷹は、人を、選ぶと聞きました」


「選びますな。選ばれる側に、回る者は、長う生きられぬ。……さて」


 前久は、扇を膝に置いた。


「ご用向きは、当ててみましょうか。内府殿の将軍職の件」


「はい」


「ほう。隠されぬか」


「隠しても、龍山殿には、お見通しかと」


 老人の口元が、ふっと緩んだ。


「聡い。七つとは、思えぬ」


「将軍職について、異存はありません」


 秀頼は、まっすぐに言った。


「ただし、一つ、お願いがあります。公家の頂、太政大臣の座を、豊臣の家に、世襲で」


 前久の笑みが、止まった。


 庭の紅葉が、風もないのに、一枚、散った。


「……世襲、と」


「はい」


「若君。太政大臣は、則闕の官でござる。人なきときは、空けておく官。わしも、かつて、その座に就き申した」


 扇の先が、畳をゆっくり叩いた。


「重い座でござった。人が背負うても、重い。それを、家に背負わせると」


「前例があります。太閤殿下は、関白の後に、太政大臣となられました」


「あれは、人。家ではござらぬ」


 鋭い返しだった。


「朝廷は、前例を、何より嫌う。一度、家に固めれば、百年先まで禍根となる。それを、わしに、頷けと」


「いいえ」


 秀頼は、首を振った。


「頷いていただくとは、申しません。お聞きしたいのです。龍山殿は、何をお望みですか」


 前久の目が、すっと細くなった。


 長い沈黙が落ちた。香の煙が、ゆらゆらと立ち昇る。


「……面白い」


 老人は、低く笑った。


「わしの望みを聞かれたのは、若君が初めてでござる。内府殿の使いは、望みを、言い当てようとなされた」


「内府殿の使いが、こちらに」


「二日前に。金子の包みを、携えて」


「いくらでしたか」


「千石分の、地代と」


 小平太が、息を呑んだ。千石。近衛家の台所には、確かに、効く額だった。


「ならば、こちらは、二千石」


 秀頼が言うと、前久は、扇で口元を隠した。肩が、小刻みに揺れている。


「ははは。値を、競り上げられるとは。わしも、安う見られたものよ」


「安う見てはおりません」


「いや、よい。内府殿の使いは、わしの喜ぶ顔を、探しておった。若君は、わしの懐を、見ておられる。……どちらが人たらしか、分かりませぬな」


 扇が下りた。笑みは、消えていた。


「一つ、お教えしよう。わしは、二股でござる」


「存じております」


「ほう」


「龍山殿は、信長公にも、太閤殿下にも、近づかれた。家康殿にも、近づかれる」


「近づくのではござらぬ。残るのでござる」


 前久は、庭を見やった。


「若い頃、越後の謙信殿に誘われ、関東まで下り申した。信長公の甲斐の陣にも、従い申した。あの頃は、誰もが、勝つ方に付いておった」


 紅葉が、また一枚、散った。


「そして、勝った者から、順に、消えた。公家は、勝つ方に付いては、ならぬ。勝った者は、必ず、次に敗れる。だから、負けても残る方に付く。近衛の家が、数百年、続いたのは、そのゆえ」


 老人の声が、一段、低くなった。


「若君も、今、盛りでござる。されど、盛りは、散る前でござる」


 胸に、刺さった。


 旗は、一度しか効かない。正信にも、如水にも言われた。そして今、この老人にも。


「承知しています」


 秀頼は、静かに答えた。


「だからこそ、散らぬ工夫を、お借りしに参りました」


 前久は、しばらく黙っていた。


「……草津の湯は、よう効き申した」


「草津、ですか」


「十余年前、湯治に参った。体の凝りは、湯が解く。人の凝りは、時が解く。……考えておこう」


 それだけだった。


「内府殿にも」


「同じことを、申し上げる」


「でしょうね」


「六日のうちに、お返事を。若君の、御意のままに」



 門を出ようとしたとき、後ろから声がかかった。


「若君」


 三十半ばの男が、廊下の端に立っていた。背が高く、痩せている。筆を持つ指の先が、墨で黒く染まっていた。


「龍山の子、信尹でおじゃる」


 鋭い目だった。父より、ずっと尖っている。言葉の端々に、父にはない、御所の奥の響きがあった。武家の陣で生きた父と違い、この男は、京の言葉で、ものを言う。


「父は、二股と申されましたか」


「はい」


「正しくは、四股でおじゃる。公家、武家、寺、そして己の家。父は、すべてに、足を置いておられる」


 信尹の唇が、皮肉に歪んだ。


「若君に、一つだけ、お聞きしたい。若君は、勝つ方に付きたいのか。それとも、負けても残りたいのか」


 答えに、詰まった。


 統一を、望んでいる。勝ちたい。だがこの問いは、その先を見ていた。


「……まだ、決まっておりません」


「正直でおじゃるな」


 信尹は、小さく頷いた。


「迷える者のほうが、長く生きる。お気をつけて」


 背を向けた信尹の指から、墨が一滴、廊下の板に落ちた。黒い染みが、庭の赤を映していた。



 夜。京の宿。


 行灯の火が、細く揺れていた。


 秀頼は、淀殿への文を書いていた。『食事は、きちんと摂っております。京の紅葉が、たいそう紅うございました』。墨が乾くのを待つあいだ、小平太が、障子の隙間から外を覗いていた。


「若君。あの御公家様は、お味方で、ございましょうか」


「分かりません」


「……分からぬのに、二千石を」


「小平太」


 秀頼は、筆を置いた。


「味方かどうかは、これから、決まります」


 そのとき、玄斎が、闇から現れた。


「若君。ご報告が」


「聞きます」


「近衛殿に、夕刻、再び客がございました。内府の使いでございます」


「……早い」


「龍山殿は、お会いになった由。刻は、半刻」


 二千石は、すでに、使いの耳に入っているだろう。千石は、これから、いくらになるのか。


 この競り合いは、金の勝負になる。


 大坂の蔵は、秀吉の遺した金銀で満ちている。だが、動かせば動かすほど、減っていく。そして、あの蔵の帳面を預かっているのは、一人の男だった。


「玄斎」


「は」


「大坂に戻ったら、治部殿を、お呼びしてください」


「治部殿を」


「金の話です」


 行灯の火が、ふっと傾いた。


 窓の外では、京の紅葉が、夜の闇に、黒く沈んでいた。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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