第8話 一度しか効かぬ
十月三日。大坂城、西の丸の縁側。
朝の雨が上がったばかりの庭に、湿った土の匂いが満ちていた。松の枝から雫が落ち、石灯籠の笠を、ぽつり、ぽつりと打つ。遠くで、城下の寺が辰の刻の鐘を打った。
「千姫様のお部屋は、わらわが選ぶ」
淀殿の声が、庭に抜けた。
扇の先が、東の棟を指す。朝日を受けた瓦が、濡れたまま光っている。木槿が、一輪だけ、遅れて咲いていた。
「陽当たりのよい、あの棟じゃ」
「母上。輿入れは、まだ数年先のことです」
「数年など、すぐじゃ」
雫が、一つ、落ちた。
淀殿は、扇を閉じた。
「江の子じゃぞ。祝いの文を送ったが、返事は来なんだ」
木槿が、風に、わずかに揺れた。
その静けさを、足音が破った。
「若君」
玄斎が、庭の隅に膝をついていた。いつから居たのか、分からない。
「細川越中守様の使者が、参っております」
淀殿は、扇を握り直した。
「下がる。聞かせてよい話ではあるまい」
母の衣擦れが、廊下の奥へ遠ざかった。
玄斎は、書状を差し出した。
細川忠興からだった。評定の前に出した誓紙を、取り下げたいという。理由は、病。文面は丁寧だが、墨に迷いがなかった。
「昨夜、本多佐渡守が、細川殿の屋敷を訪ねております」
「宴席ですね」
「福島殿は、断られました。黒田殿、細川殿、浅野殿は、応じておられます」
書状の端が、指の中で、くしゃりと鳴った。
旗の下で槍を収めた人々は、味方になったのではなかった。それを、あの老人は、一目で見抜いていた。
庭の木槿の花が、一枚、散った。
「黒田殿に、会います」
◇
夕刻。黒田長政の屋敷。
西日が、障子を茜に染めていた。
長政は、庭に面した座敷で、碁盤に向かっていた。三十を過ぎた武将の背は、岩のように動かない。石を置く音だけが、乾いて響く。
「若君が、わざわざ」
「佐渡守殿の宴席は、楽しゅうございましたか」
石を置く手が、止まった。
「早耳でござるな」
「ご返答を」
「酒も魚も、実によい味でござった。内府殿は、拙者の働きを、忘れておられぬと」
長政は、皮肉の匂いのする笑みを浮かべた。
「筑前の地を、加増なさりたいとも」
「受けるのですか」
「さて。関ヶ原で槍を収めた身。命があるだけで十分と存じますが」
一滴の本音も、混じっていない。
秀頼は、碁盤を見た。白と黒が、ほぼ互角に並んでいる。
「父上に、会わせていただけますか」
障子の外で、鵙が、短く鳴いた。
「……如水殿に」
「若君」
長政は、ゆっくり石を碁笥に戻した。
「拙者と父は、意見が違います。父は、豊臣に殉じる覚悟。拙者は、家を守る覚悟。同じ屋根の下にあっても、同じ空は見ておりませぬ」
「聞いております」
「父に会えば、若君は、父の策に巻き込まれる。拙者は、それを望みませぬ」
拒絶だった。
秀頼は、白石を一つ取り、盤の隅に置いた。
「父上に、よしなにとお伝えください」
長政が、息を止めた。
西日が、白石の上で、鈍く光った。
「……承ってござる」
廊下に出ると、風が立った。
奥の暗がりに、老人が一人、立っていた。痩せた体に、杖。足を引きずるが、背は真っ直ぐだった。
視線が、絡む。
老人は、口元をわずかに歪めた。笑ったのだ。だが、目は少しも笑っていなかった。
◇
夜。大坂城、本丸の廊下。
行灯が、風に細く揺れていた。
「若君。夜道は、お足元に気をつけなされ」
提灯も持たずに、本多正信が立っていた。
「年寄りは、転ぶと、骨が曲がりますでな」
「佐渡守殿。まだ、大坂におられたのですか」
「明朝、発ちます」
正信は、ゆっくり歩み寄った。闇の中で、目だけが光っている。
「黒田殿のお屋敷は、いかがでした」
「碁を、一手だけ」
「一手で足りる碁も、ございます」
行灯の火が、ふっと傾いた。
「若君。先日の評定、わしは感心いたしました。毛利殿を、お救いになった。あれで、西の大名は、若君を侮りませぬ」
「それは」
「ですが、若君は、一つ、お間違えになっておられる」
声が、低くなった。
「誰が味方かを、旗で測っておられた。東の大名は、恩ではなく、禄で動きます。旗の下で槍を収めたのは、福島殿の情でござる。他の方々は、ただ、迷っておられただけ」
秀頼は、言葉を失った。
反論の材料は、いくらでもあるはずだった。だが、昼間の細川の書状の前では、どれも軽い。
「年寄りの戯言と、お聞き流しくだされ」
正信が、深々と頭を下げた。
「佐渡守殿」
「何でござろう」
「年寄りは、茶を三杯も飲めぬ、と聞きました」
正信の目が、見開かれた。
「私は、三杯、いただきました」
「……ははは」
喉の奥から、笑いが漏れた。
「それは、結構。ですが、若君。三杯目まで来れば、あとは、茶碗を置く時でござる」
足音が、闇に遠ざかった。
最後に、一言だけが、風に乗って届いた。
「旗は、一度しか効きませぬな」
拳が、白くなっていた。
行灯の火が、細く、細く、揺れ続けていた。
◇
翌朝。
玄斎が、書状を差し出した。
「黒田如水殿より。若君のお出ましを、お待ちするとのこと」
封を切る。墨痕の鋭い、几帳面な文字が並んでいた。
『張本人殿に、一度、お目にかかりたく』
それだけだった。
◇
黒田の屋敷、離れの書院。
障子を開け放った縁側から、秋の庭が見えた。紅葉には早い。ただ、庭の端の楓だけが、ひと枝、赤く染まっていた。
人払いは、済んでいた。
小さな座敷に、如水が一人、座していた。六十に近いと見えるが、実際は、もう少し若いのだろう。頬はこけ、足を引きずる。だが、目だけが、異様に澄んでいた。
「お越しくださり、かたじけない」
如水は、静かに頭を下げた。
「関ヶ原のこと、ご苦労様でござった。お見事な采配でございました」
「如水殿」
「いや、感服いたしました。旗一本で、戦を止められた。わしが九州で、半年かけて整えた算段が、一日で、無になり申した」
如水は、笑った。声は、穏やかだった。
「あれは、よい夢でござった。東西が長引けば、わしにも、天下の一端が回ってきたやもしれぬ。……失ってみれば、惜しいものよ」
楓の葉が、風もないのに、ひとひら、落ちた。
その目が、秀頼を見た。
笑みが、動かない。瞳の奥が、闇のように深い。怒りではない。もっと冷たい何かだった。
「一つだけ、お聞かせ願いたい」
「何でしょう」
「若君は、あの朝、何を見ておられましたか」
空気が、止まった。
「旗の下に、立っておられた。福島殿が槍を収められる前から、すでに知っておられたような顔をしておられた。……若君は、あの結末を、ご存じだったのではござらぬか」
秀頼の背に、冷たいものが走った。
「……いいえ」
「そうですか」
如水は、あっさり引いた。
「ならば、よい。年寄りの戯言と、お聞き流しくだされ」
正信と、同じ言葉だった。
如水は、ゆっくり立ち上がり、窓辺へ歩いた。赤く染まった楓の枝が、影になって揺れている。
「若君。次は、わしの舞台を、壊さぬようにお願いしますぞ」
背を向けたまま、静かに言った。
「あの舞台は、わしの最後の賭けでござった。二度目は、ございませぬ」
振り返る。
笑っていた。
その笑みの奥で、何かが、ひどく壊れている。秀頼は、はっきりと、それを見た。
「楽しみにしております、若君」
秀頼は、一礼して、座敷を出た。
廊下の奥で、長政が、碁盤の前に座していた。目が合う。長政は、何も言わなかった。
碁盤の上に、白石が一つ、増えていた。昨日、秀頼が置いたものとは、別の場所に。
数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。
続きが読んでみたいと思えましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




