第7話 三杯の茶
九月二十八日。大坂城、本丸大広間。
上座に秀頼。その右に吉継、左に信繁。下座には奉行衆と福島正則、少し離れて毛利輝元が肥えた体を縮めていた。三成は、末席にいる。
正面に、一人の老人が平伏していた。
「内府の名代、本多佐渡守正信にござる」
小柄で、目だけが鋭い。六十を過ぎているはずなのに、頭の下げ方に隙がなかった。
「内府殿は、来られなかったのですね」
「清洲にて軍勢をまとめております。万一の備えが要りますゆえ」
来れば人質になる。そう言わずに言う男だった。
秀頼は頷いた。
「では、私から先に申します」
広間の空気が動いた。
「一つ。上杉征伐の兵は解いていただきます。一つ。無断の縁組と、勝手な知行の分配は白紙に。一つ。内府殿には大老として、合議の席へ戻っていただきます。誓紙をお願いします」
「いずれも、承りましょう」
正信は、あっさり答えた。想定の内なのだろう。
「もう一つ」
秀頼は続けた。
「太閤殿下の遺命のとおり、千姫殿を私の妻に迎えます。ただし輿入れの日まで、千姫殿には大坂でお暮らしいただきたい」
正信の目が、すっと細くなった。
千姫は、まだ三つ。徳川秀忠の娘で、淀殿の妹・江の子である。縁組という名の、人質だった。
「内府殿の孫であり、母上の姪でもある方です。誰よりも大切にお預かりします」
正信は、すぐには答えなかった。
「待たれよ」
正則が、太い声で割って入った。
「関ヶ原に間に合わなんだ秀忠殿に、断る道理があるか。遅参は内府殿の人選の過ちじゃ。それを棚に上げて、異を唱える気か」
「福島殿」
吉継が杖を鳴らした。
「そこまでにござる」
正信は口の端をわずかに歪め、深く頭を下げた。
「秀忠様のお着きの遅れは、事実にございます。承りました。内府に、さように申し伝えます」
あっけない決着だった。だが秀頼は、この老人が負けた顔をしていないことを、見逃さなかった。
◆ ◆ ◆
正信が退くと、秀頼は広間を見渡した。
「次は、こちらの番です」
ざわめきが止まった。
「関ヶ原は、内府殿だけが起こしたものではありません。こちらにも、責めを負う者がおります」
輝元の肩が跳ねた。額に汗が浮く。
「毛利殿」
「せ、拙者は」
輝元は慌てて頭を下げた。
「大坂城に、居ただけにござる。兵も動かしておりませぬ。……い、居ただけで」
「そのとおりです」
秀頼が即座に頷いた。
「毛利殿は大坂城におられました。私と母上を守ってくださいました」
「……は?」
「居ただけの人を、罰することはできません」
信繁が、袖で口元を隠した。肩が震えている。
輝元は何度も瞬きをして、深々と平伏した。
「かたじけのうござる」
助かった、という顔だった。
「石田殿」
広間が、再び張りつめた。
末席の三成が、静かに顔を上げた。
「筆頭奉行の職を降りていただきます。以後は、大谷刑部の下で働いてください」
「……はっ」
三成は表情を変えず、深く平伏した。その背を、正則が鋭く睨む。唇が動きかけて、止まった。
「秀頼様の顔に免じて、それがしはこれでよしといたす」
低い声だった。許したのではない。収めただけだ。
吉継が、小さく息を吐いた。
◆ ◆ ◆
評定が散じた後、廊下の角で、輝元が秀頼を呼び止めた。
「若君。先ほどは、まことに」
「毛利殿」
秀頼は声を落とした。
「一つ、お願いがあります」
「は。何なりと」
「毛利の瀬戸内の魚は、美味と聞きます。毎月、鉢屋の者のところへ、届けていただけますか。内々に」
「は? さ、魚を?」
「はい。鉢屋は、魚が好物なのです」
輝元は、ぽかんとして、秀頼の顔と、廊下の奥に立つ玄斎の影を見比べた。
食い扶持だ。里の者を養う、名目のない扶持。魚と呼べば、誰の耳にも入らない。
「……承知いたした」
輝元は肥えた腹を揺すって頷いた。
「瀬戸内の鯛を、毎月」
「内々に、お願いします」
廊下の奥で、玄斎が無言で一礼した。
◆ ◆ ◆
夕刻。西の丸、小さな茶室。
秀頼は、一人で座っていた。
戸が、静かに開く。三成が、膝をついて入ってきた。
「お呼びと伺いました」
「はい。座ってください」
三成は硬い動きで膝を進めた。狭い茶室が、二人の距離を詰める。
「今日のことは、お詫びしません」
秀頼が言った。
「治部殿を、人の前で降ろしました。理由は、治部殿がいちばんよくご存じでしょう」
「……承知しております」
「それでも、私は治部殿を頼りにしています」
三成の顔が、わずかに動いた。
「お願いがあります。父上が鷹狩りの帰りに、喉が渇いて寺に寄ったとき、治部殿は茶を三杯、出されたと聞きました」
「……」
「私にも、同じように点てていただけますか」
三成は長い間、黙っていた。やがてゆっくりと、茶筅を手に取った。
一杯目。大きな茶碗に、ぬるい茶がたっぷりと注がれた。秀頼は両手で受け取り、一息に飲んだ。
「喉が、潤いました」
「二杯目にございます」
少し小さな茶碗。茶は、やや熱く、やや濃い。
三杯目。小さな茶碗に、熱く濃い茶が、わずかだけ注がれた。飲み干すと、胸の奥に熱が広がった。
三成が口を開いた。
「殿下は『この小僧、気が利く』と仰せになりました。あの頃の私は、渇いた方に茶を差し上げただけでした」
「それが、父上を動かしたのですね」
「……はい」
声が、わずかに掠れていた。
秀頼は、茶碗を返すとき、三成の手に、自分の小さな手を重ねた。
「治部殿は、父上が最も頼りにした人の一人で、私も同じです。……いつか、また点てていただけますか」
三成は動かなかった。長い沈黙の後、茶碗を受け取り、深く頭を下げた。
「……は」
それだけだった。肩が、小さく震えていた。
◆ ◆ ◆
茶室を出ると、吉継が廊下で待っていた。
「若君。治部のこと、ありがたく存じます。あれは不器用な男で、このままでは、誰にも言わずに折れてしまう」
「刑部殿。これから、治部殿をお願いします」
「心得ました」
吉継が小さく咳き込み、袖で口元を覆った。
「……失礼を」
その袖に、赤いものが滲んでいた。
秀頼は、見なかったふりをした。吉継も、何も言わなかった。
日が沈み、秋の風が廊下を吹き抜けていった。
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