第6話 凱旋の夜
九月十九日。大坂城、大手門。
雨上がりの空に、金の馬印が高く掲げられていた。
城下の町人が、道の両脇に溢れている。誰も声を上げなかった。七つの少年が、輿の簾を上げて、静かに通り過ぎる。その後ろに、福島正則が泥の乾いた鎧のまま続いていた。
「若君。お手を振られては」
信繁が、馬上から小声で言った。
「手を?」
「皆、顔を上げられずにおります。笑ってやれば、安堵いたしますぞ」
秀頼は、簾の隙間から、群衆を見た。老人も、子どもも、息を詰めている。
小さく手を上げると、どこかで誰かが、洟をすすった。
それが、波のように広がった。
◆ ◆ ◆
本丸の奥御殿。
淀殿は、門の内で待っていた。
輿から降りた秀頼を、じっと見つめる。泥だらけの袴、擦りむいた膝、日焼けした頬。
「……母上。ただいま戻りました」
淀殿は、答えなかった。ゆっくりと膝をつき、秀頼の肩を、両手でつかんだ。
指が、震えている。
着物の袖を握り、頬をなぞり、頭の先から爪先まで、何度も確かめるように撫でた。
「……傷は」
「ありません。膝を擦りむいただけで」
「文は、毎日、届いておった」
淀殿の声が、掠れた。
「『食事は、きちんと摂っております』。……あの文を、わらわは、何度も読んだ」
秀頼は、思わず目を逸らした。あの一行が、母にそれほど届いていたとは、思わなかった。
「約束は、守りました」
「そうじゃな」
淀殿は、目を閉じた。
「一つ、旗の下から出なかった。二つ、日に一度、文を寄越した。三つ、生きて戻った」
三つ、指を折る。
「……全部、守ったのじゃな」
「はい」
淀殿は、ゆっくりと立ち上がった。背を向けたまま、袖で顔を拭った。
「今夜は、わらわの部屋で、休め。……何も話さずともよい」
それだけ言って、侍女たちの方へ歩いていく。
その背中が、いつもより小さく見えた。
◆ ◆ ◆
夜。
秀頼は、母の居室で、布団に入っていた。
隣で、淀殿は、行灯の火を絞ったまま、動かなかった。起きているのが分かった。
「母上」
「何じゃ」
「怒って、おられませんか」
「怒っておる」
間もなく、返事があった。
「勝手に出たことも、わらわに何の相談もなく決めたことも。……じゃが」
布団の端が、かすかに動いた。
「そなたが、生きて戻った。怒る前に、それが先に来てしまう。……困ったことじゃ」
秀頼は、小さく笑った。
母は、強がりな人だった。その強がりが、今は、ひどく温かかった。
「次に出るときは」
「出さぬ」
「それは」
「出さぬと申したら、出さぬ」
淀殿の声に、少しだけ、いつもの調子が戻っていた。
「……じゃが」
短い沈黙の後、小さな声が続いた。
「一度だけ、聞いてやる。次は、必ず、事前に申せ。わらわに黙って決めるでない」
秀頼は、頷いた。闇の中で、母には見えなかっただろう。
「はい。約束します」
行灯の火が、ゆらりと揺れた。
遠くで、虫が鳴いていた。
◆ ◆ ◆
翌朝。西の丸の庭。
「ち、父上」
小平太が、玄斎の前で、直立していた。
「お、お水を、持って参りました」
「うむ」
玄斎は、短く答えた。井戸端の石に、静かに腰を下ろしている。
小平太が、湯飲みを差し出した。手が、わずかに震えている。玄斎は、受け取り、一口飲んだ。
「……先日の福島殿との件、聞いた」
小平太の肩が跳ねた。
「も、申し訳ございません。猪などと、無礼なことを」
「叱ってはおらぬ」
玄斎は、桶を置いた。
「福島殿は、笑っておられたか」
「は、はい。大声で」
「そうか」
玄斎の口元が、わずかに緩んだ。普段、ほとんど表情の変わらない男の顔に、微かな色が浮かんだ。
「鉢屋の者が、人に笑われるのは、久方ぶりのことだ」
「父上……」
「おぬしは、それでよい。若君の傍にあって、普通の小姓として笑っておれ。……裏のことは、わしがやる」
小平太は、何か言おうとして、口をつぐんだ。ただ、深く頭を下げた。
その様子を、庭の隅から、秀頼は見ていた。
親子の会話に、割って入る気にはなれなかった。そのまま、そっと踵を返す。
背後で、小平太が、小さく声を漏らした。
「……あの、父上。若君は、どんなお方ですか」
玄斎の返答は、聞こえなかった。
ただ、いつもより、少しだけ、足取りが軽くなった気がした。
◆ ◆ ◆
昼。評定の間。
奉行衆が、既に揃っていた。増田長盛、前田玄以、長束正家。三成も、末席に座している。吉継は、病を押して来ていた。
「若君。和睦の件につき、東の使者が参っております」
玄以が告げた。
「内府殿は、尾張・清洲に陣を敷き、動いておりませぬ。ただ、一通の書状を」
「読みましょう」
秀頼は、書状を開いた。
墨の跡が、濃い。家康の手だった。
『秀頼殿の御意を、承りたく存じ候。つきましては、双方の仕置きにつき、評定を開かんことを。内府』
「評定、とは」
「戦の後始末を、東西で話し合いたい、との意かと」
長盛が、眉をひそめた。
「内府は、負けたつもりはないのです。かような書状を寄越して、こちらを試しておるのでしょう」
「受けましょう」
秀頼は、書状を畳んだ。
「ただし、評定の場は、こちらで決めます。大坂で、行います」
広間が、ざわめいた。
「若君、それは」
「内府殿が、わざわざ来てくださるなら、受け入れる。来ないなら、それまで」
三成が、じっと秀頼を見ていた。その視線の意味は、まだ、読み取れなかった。
吉継が、杖に手を置いて、静かに言った。
「若君。仰せの通りにございます」
その声に、少しだけ、安堵の響きがあった。
外では、蝉に代わって、秋の鳥が鳴き始めていた。
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