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旭日を纏いし魔童 ~豊臣秀頼、関ヶ原に立つ~  作者: エピファネス


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第5話 家康、退く

 徳川の本陣。


 霧が、晴れ始めていた。


 徳川家康は、床几に腰を下ろしたまま、前方の丘を見つめていた。先陣が動かない。福島の槍が伏せられ、黒田の旗が止まり、細川、浅野へと、静止が波のように広がっていく。


「殿。福島殿、馬を降りて泣いておられるとのこと」


 井伊直政が、苦い顔で告げた。


「見えておる」


 家康は、扇を膝に打った。乾いた音がした。


「七つの童が、旗を立てて立っておるだけで、わしの先陣が止まるか」


 傍らの本多忠勝が、低く唸った。


「殿。豊臣恩顧の諸将は、東軍の大半を占めまする。あの旗に槍を向ける者が、どれほどおりましょう」


「おらぬであろうな」


 声は静かだった。ただ、扇を握る指の節が、白くなっていた。


 太閤め。死してなお、わしの前に立つか。


 そこへ、使者が一通の文を捧げてきた。


 子どもの字だった。書き出しは丁寧で、文は短い。


『この戦、福島殿らの戦に非ず。秀頼、旗の下に在り。内府殿、槍を収め給え』


 命令ではなく、願いの形をとっている。それが、かえって厄介だった。拒めば、ただの意地になる。受ければ、先に退くことになる。


 家康は文を畳んだ。


「直政。戦うか、退くか」


「戦うべきにございます。まだ、こちらの兵が多い」


「その兵のうち、何人が槍を構える」


 直政は、答えに詰まった。


「……秀忠の軍は、中山道か」


「真田の足止めにあい、いまだ着陣いたしませぬ」


「待てぬな」


 家康は立ち上がった。


「清洲まで退く。勝てぬ戦はせぬ。……負けぬ戦は、まだある」


◆   ◆   ◆


 旗の下。


 東の丘の旗が、ゆっくりと下がり始めた。


「内府殿、退かれます。清洲の方角へ」


 玄斎が、低く告げた。


「追うべきです」


 三成が、すぐに進み出た。


「今、背を討てば、内府の首が取れます。この機を逃せば、二度とない」


「治部殿」


 信繁が、静かに言った。


「追う兵が、おりますか」


「何を」


「福島殿も、黒田殿も、細川殿も、今は槍を収めておられるだけ。内府殿を討てと命じて、動く方がおられますか」


 三成は、口を閉ざした。そこへ、泥だらけの正則が、大股で近づいてきた。


「若君。それがしの隊は、追いませぬぞ」


「貴様」


 三成が、振り向いた。


「内府は、貴様の恩人ではあるまい」


「恩人かどうかは知らぬ。ただ、あの方の背に槍を向ける気は、それがしにはない。治部、貴様が追えばよかろう」


「小勢で追えるか!」


「ならば、黙っておれ」


 二人の声が、陣中にぶつかる。信繁が、小さく溜息をついた。


「若君」


 その声に、全員が振り向いた。


 七つの子が、旗竿の下で、まっすぐ立っていた。


「追いません」


「若君!」


「今、追えば、福島殿も黒田殿も、内府殿の側で戦うことになります。今は迷っておられるだけの方々を、敵にしてしまう」


 三成の拳が、握りしめられた。


「それに」


 秀頼は、言葉を継いだ。


「蔵も、兵も、朝鮮の戦の後、まだ元に戻っておりません。追って勝てても、その先を支えられません」


 信繁が、目を細めた。その通りだった。二年前に終わった戦の傷は、まだ癒えていない。


「好機を、逃されます」


 三成が、絞り出すように言った。


「逃したのではありません。……今は、手が届かないだけです」


 それが、秀頼の本音だった。


 本来ならば、ここで終わるはずだった。史実では、家康が勝ち、豊臣が傾く。その筋道は、秀頼の頭に、確かに刻まれていた。だが、今、家康は背を向けている。


 ここから先は、誰も知らない。


 胸の奥が、冷たくなった。知らない道を歩くのは、思ったよりも怖い。


◆   ◆   ◆


 日が傾き始めたころ。


「若君、お水を」


 小平太が、桶を抱えて走ってきた。陣の端で、泥を落としていた正則の前で、足が止まる。


「ふ、福島様。お、お顔を、お拭きくださいませ」


 声が裏返った。


「ん?」


 正則が、顔を上げた。赤ら顔に、泥と涙の跡がまだ残っている。小平太は、手拭いを差し出したまま、固まっていた。


「小姓か。名は」


「小平太にございます。……け、けっこうなお姿で」


「けっこうとは何じゃ」


「……猪のようで」


 言ってから、小平太は口を押さえた。顔が、みるみる青くなる。


 一瞬の静寂の後、正則が、腹の底から笑い声を上げた。


「猪か! 言うではないか、小僧!」


 大きな手が、小平太の頭をわしづかみにした。


「気に入った! 治部のような堅物より、よほどましじゃ。おい、小平太。今夜、酒に付き合え」


「そ、それがしは、酒は」


「飲め!」


 小平太は、困り果てた顔で、助けを求めるように振り向いた。そこで、秀頼と目が合った。


 あの子は、あんな顔をするのか。


 硬くなっていた少年が、初めて見せた素の声だった。秀頼は、小さく笑った。小平太は、慌てて目を逸らした。


◆   ◆   ◆


 夕刻。


 家康の使者が、書状を携えて現れた。


 秀頼は、陣の中央で受け取り、封を切った。


 家康の手だった。短い。


『お文、拝読仕った。此度は、退き申す』


 それだけで終わるかと思った。だが、文末に、一行だけ添えてあった。


『ただし秀頼殿。旗は、一度しか効かぬ』


 指が、止まった。


 文を持つ手が、わずかに冷えた。


 家康は、分かっているのだ。今日の勝ちが、旗の力であって、自分の力ではないことを。次に同じ手は通じない。次は、旗の無い場所で、戦いが始まる。


「……分かっております」


 秀頼は、小さく呟いた。


 空が、茜色に染まっていく。旗は、まだ金色に光っていた。


 次は、何で立つのか。それを、考えなければならない。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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