第4話 槍は止まる
九月十五日、辰の刻。
松尾山の麓。大谷吉継は、夜明け前に自陣へ戻っていた。秀秋の動きを、目の届くところで見張るためである。
◆ ◆ ◆
霧は、まだ谷を離れなかった。
福島隊の鉄砲足軽、弥助は、落とした火縄を拾えずにいた。指が動かない。
「……本当に、金瓢箪か」
「馬鹿を言うな。太閤殿下は、とうに亡くなられた」
「ならば、あれは何だ」
前列の旗が、ざわざわと揺れている。槍の穂先がばらばらの方を向き、誰も前へ進もうとしなかった。
先頭の馬上で、福島正則は動かなかった。
赤ら顔の大男である。陣中でも戦場でも、怒鳴るように笑う人だった。その正則が口を半ば開いたまま、霧の向こうを睨んでいる。
「殿」
家老が馬を寄せた。
「合図を。御先陣が動かねば、東軍は誰も動けませぬ」
「分かっておる」
掠れた声だった。
「分かっておるわ」
采配を握る手が、小刻みに震えている。そこへ、後方から早馬が駆けてきた。
「内府様よりの御諚。なぜ進まぬ、とのこと」
正則は、答えなかった。
視線の先で、金の瓢箪が霧に滲んでいる。賤ヶ岳で、あの旗の下を走った。まだ市松と呼ばれていた頃の話だ。
旗の下。
「今です、若君」
石田三成が、鉄砲隊を背に進み出た。
「福島の先鋒が止まっている今、一斉に撃ち掛ければ崩れます。この機を逃せば」
「なりません」
秀頼が言った。
三成は、息を詰めた。
「撃てば、福島殿の槍が戻ります。あの方は今、迷っておられる。迷っている人を押せば、かえって固まります」
「迷わせたままで、どうなさる」
「待ちます」
三成の眉間に、深い皺が刻まれた。口を開きかけたとき、信繁が横から声をかけた。
「治部殿」
「何だ、信繁」
「今、一発撃てば、福島殿の槍を止めたのが若君の旗ではなく、治部殿の鉄砲だったことになります。あの方は、それを一生忘れませぬ」
三成は、奥歯を噛んで引き下がった。
信繁が、腕を組んだまま小さく笑った。
「若君は、撃たせぬおつもりで、この旗を立てられたのですな」
「はい」
秀頼は、旗竿の下で背筋を伸ばした。
七つの子に、馬は要らない。ここに立っているだけでいい。
霧の中から、一騎が進み出た。
赤い顔。馬の鼻息が白い。供は、数騎しかいない。
「そこにおわすは」
声が、谷に響いた。
「秀頼様か!」
「はい」
秀頼は、一歩も動かずに答えた。
正則は、十間ほどの距離で馬を止めた。鐙の上で、体が揺れている。
「なぜ、かような所に。治部めに引きずり出されましたか」
「私が決めて参りました」
声が、わずかに震えた。袴の下で、小さな膝を握りしめる。
正則は、答えに詰まった。その後ろで、三成が身を固くした気配がした。
「それがしは」
声が、裏返った。
「それがしは、治部を討つために、この陣におります。若君に弓を引くためではござらぬ。……お分かりのはず」
「はい。福島殿が治部殿を許せないことは、聞いております。朝鮮のことも、いつぞやのことも」
秀頼は、一呼吸おいた。
「許せ、とは申しません」
正則が、目を見開いた。
「ただ、私の前で、父上の旗に槍を向けるのだけは、やめていただきたいのです。福島殿が槍を向けたいのは、父上ではなく、治部殿のはずですから」
「その治部は、旗のすぐ後ろにおるではないか!」
「はい。ですから、福島殿が槍を向ければ、旗に向けることになります」
正則の口が、ぱくりと閉じた。
逃げ場のない理屈だった。だが、秀頼は、そこで止めなかった。
「だから、私が預かります」
「……預かる、とは」
「治部殿のことも、福島殿のお怒りも、私が聞きます。内府殿には、私が文を出します。この戦は、福島殿の戦ではない、と」
「それがしに、内府殿を裏切れと申されるか」
「いいえ」
秀頼は、首を振った。
「槍を、収めていただくだけです。私に従えとも、内府殿を討てとも申しません。……父上は、よく申しておりました」
霧が、一瞬、薄れた。
「市松は、泣き虫で、一番に走る。だが、いちばん頼りになる、と」
正則の肩が、びくりと跳ねた。
震える手から、采配が滑り落ちた。馬上の巨体が、ぐらりと揺れた。
「……殿、下」
掠れた声が、洩れた。
「殿下は……そのようなことを」
次の瞬間、正則は馬から飛び降りた。泥の中に、両膝をつく。大きな背中が、肩ごと震えていた。
「……なんと、愚かな」
絞り出すような声だった。
「それがしは、何をしに来たのか。殿下の旗に、槍を向けに来たのか」
家老が、慌てて駆け寄る。供の者たちも、次々と馬を降り、膝をついた。
正則は、顔を上げた。涙と泥で、顔がぐしゃぐしゃになっている。
「若君。治部は、許しませぬぞ」
「はい」
「だが、今日は」
太い声が、谷に響いた。
「槍を、収める!」
福島隊の槍が、一本、また一本と伏せられていった。
弥助は、ようやく火縄を拾った。指の震えは、止まっていた。
隣の古参の足軽が、鼻をすすりながら言った。
「……殿が、泣いておられる」
「ああ」
弥助は、それ以上、何も言えなかった。
福島隊が動かないのを見て、東軍の他の陣にも、ざわめきが走った。黒田長政の旗が、止まった。細川の隊が、足を緩めた。浅野の旗が、前後に揺れる。
一方で、松尾山は、静かなままだった。小早川の大軍が、動かない。
「……旗を、見ておられますな」
信繁が、低く言った。
「はい」
秀頼は、ようやく、深く息を吐いた。握りしめていた小さな拳が、掌の中で汗に濡れている。
その時、信繁が声を落とした。
「若君。気をお抜きになってはなりませぬ。……福島殿は、槍を収めました。されど、内府殿は、まだ何も収めておりませぬ」
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、霧の向こう、東の高みで、ひときわ大きな太鼓が鳴った。
一つ。そして、二つ。




