第3話 人たらし、松尾山
秋風が、輿の簾を揺らした。
蝉の声は、いつの間にか消えていた。代わりに、道端の草むらで虫が鳴いている。大坂を発って、七日。尾張、美濃と、揺られ続けて、背骨が軋んでいた。
出陣の朝、母は門まで来なかった。代わりに、小さな守り袋が、侍女の手から渡された。
中には、護符と、折りたたんだ紙が一枚。開くと、母の字で、たった一行。
『生きて戻れ』
それだけだった。
秀頼は、紙を畳み直し、胸元にしまった。揺れる輿の中で、何度目かの吐き気をこらえる。
関ヶ原に着いたのは、九月十四日の夕暮れだった。
霧が、谷に溜まり始めていた。西の丘の上に、豊臣の本陣が、幔幕を張っている。その中央に、金の馬印が立っていた。夕暮れの空に、黄金の瓢箪が、鈍く光っている。
豊臣の本陣に幔幕が張られた。その中央に、金の馬印が立っている。夕暮れの空に、黄金の瓢箪が鈍く光っていた。
秀頼は、陣の隅で筆を握っていた。
「……母上、今日も生きております」
一行書いて、止まる。淀殿との約束の二つ目、日に一度、無事を知らせる文だ。続きが出てこない。馬に揺られて尻が痛いとも、輿の中で何度も吐きそうになったとも、書けるわけがなかった。
「あ、あの、若君」
背後で、小平太が声を裏返した。
「お、お文は、それがし、お届けに」
「もう少し、待ってください」
「は、はいっ」
小平太は後ずさり、膝を折って、また畳の目ばかり見つめた。鉢屋に迎えて十日。まだ、目を合わせてくれない。
秀頼は、結局、短い文を書いた。『食事は、きちんと摂っております』。小平太に渡すと、少年は両手で押し頂くようにして走り去った。
入れ替わりに、玄斎が現れた。足音は、ない。
「若君。例の文の写し、これに」
差し出された紙には、見覚えのある花押の写しが並んでいた。小早川秀秋から、徳川方への内応の約束。黒田長政、浅野幸長が、橋渡しをしたとある。
背後で、杖の音がした。大谷吉継が、白い頭巾の奥から紙を覗き込む。
「やはり、か」
低い声だった。
「松尾山の金吾殿は、動くまい。いや、動く。ただし、こちらではない」
「斬るべきです」
三成が、膝を打った。
「内通の証拠が上がった以上、今夜のうちに松尾山へ兵を向けるべき。先に叩かねば、明日、背を刺されます」
「一万五千の兵を、今から囲めるか」
吉継が、静かに返した。
「あちらが気づいて動けば、それこそ戦の始まりが早まる。内府の思う壺じゃ」
二人が睨み合う。信繁が、腕を組んだまま、口を開いた。
「若君。斬るも囲むも、危うございます。それがしは、いっそ放っておくのが」
「会います」
秀頼が言った。
三人が、揃って振り向く。
「小早川殿を、ここへ呼びます。お一人で」
「なりませぬ」
三成の声が尖った。
「相手は、すでに寝返っておる者。若君に、何かあれば」
「ここは、旗の下です」
秀頼は、広間の時のように、金の馬印を指した。
「母上と、旗の下から出ないと約束しました。私が行くのではなく、来ていただくのです」
信繁が、ふっと笑った。吉継は、何も言わなかった。
「玄斎。金吾殿に、こう伝えてください。『大坂の秀頼が、お待ちしております。お一人で、人目につかぬように』」
「……文は、持たせずに」
「はい」
玄斎は、一礼して消えた。
三成は、苦い顔で目を逸らした。
亥の刻。雨が、降り始めていた。
幔幕の入口が、揺れた。
現れたのは、痩せた若者だった。まだ十八。着物の襟が乱れ、目の下に濃い隈がある。供は、玄斎に止められて、陣の外に残ったらしい。
「小早川、秀秋にございます」
声が、掠れていた。膝が、がくがくと震えている。
金の馬印の下に、小さな少年が座っていた。
秀秋は、息を呑んだ。この子どもが、あの太閤の子か。その後ろに、吉継と信繁が控えている。三成の姿は、ない。
「雨の中、ご足労をおかけしました」
秀頼は、丁寧に頭を下げた。
「どうか、お座りください」
「は……ははっ」
秀秋は、静かに床几に腰をかけた。額に、冷や汗が浮いている。
「呼び出された理由は、お分かりでしょうか」
「……いえ」
「徳川内府殿への、文のことです」
秀秋の顔から、血の気が引いた。
秀頼は、写しの紙を、そっと畳に置いた。
「黒田殿と浅野殿が、間に立たれたと聞きました。」
「あ……あれは」
「責めるために、お呼びしたのではありません」
秀頼は、紙を押しやった。
「お返しします」
秀秋は、紙と、秀頼の顔を、交互に見た。
「……なぜ」
「持っていても、私には要りませぬ。金吾殿が持っていてくださる方が、よいと思いました」
秀秋は、動かなかった。手を伸ばせば、罠かもしれない。そう思っているのが、顔に出ていた。
「金吾殿が、内府殿に付こうとなさるのは、分かります」
秀頼は、続けた。
「越前に移されたとき、誰も助けてくれなかったのでしょう。それを、内府殿だけが、元に戻してくださった。恩を感じるのは、当たり前です」
秀秋の唇が、わなないた。
「私は、その恩を、捨てよとは申しません」
「……若君」
「ただ、お聞きしたいのです。金吾殿は、怖くはありませんか」
秀秋は、息を止めた。
「私は、怖いです」
秀頼は、小さな手を、膝の上で握った。
「明日、あの旗の下に立つのが、怖い。七つ子が、大人の戦に出るのです。怖くないはずがありません」
幔幕を雨が叩く音が、強くなった。
「金吾殿も、怖いのではありませんか。どちらが勝つ側か、分からないことが」
長い沈黙があった。
やがて、秀秋の肩が、震え始めた。
「……怖うございます」
かすれた声が、洩れた。
「毎夜、眠れませぬ。治部殿には、朝鮮の戦で、罪をなすりつけられ、越前へ落とされました。内府殿は、救ってくださった。……ですが、どちらを選んでも、いつか、誰かに指をさされる。裏切り者、と」
涙が、膝の上に落ちた。
「叔母上(北政所)にも、顔向けができませぬ。私は、何者にも、なれぬのです」
秀頼は、黙って聞いていた。それが、いちばんの答えだと分かっていた。
「北政所様が、案じておいででした」
「叔母上が……」
「金吾殿のお名を出されるたび、目を伏せておいででした」
秀秋は、両手で顔を覆った。肩が、小さく震えている。若者の背に、吉継が、そっと視線を向けた。
やがて、秀秋は、顔を上げた。
「若君。……この文、持ち帰らせていただきます」
写しの紙を、両手で取った。
「そして、燃やしてもよろしゅうございますか」
「お任せします」
秀頼は、微笑んだ。
その笑みは、七つの子のものではなかった。だが、秀秋には、そう見えていなかったのかもしれない。彼はただ、深く、頭を下げた。
「……明朝。旗を、見ております」
秀秋が去った後、陣の中が、しんと静まった。
「……お見事にございました」
吉継が、低く言った。
「あれほど怯えておった者が、涙を流して頭を下げました。……太閤殿下が、そこにおられるようでござった」
「いえ」
秀頼は、首を振った。
「私が、本当に、怖かっただけです」
信繁が、ふっと息を漏らした。三成は、まだ難しい顔をしている。
その時、陣の入口が、慌ただしく揺れた。
「わ、若君ッ」
小平太が、息を切らして飛び込んできた。濡れた髪が、額に張りついている。
「み、見て参りました。東の方角、赤坂の陣で」
「落ち着いて」
「は、はいっ。あの、福島の……福島正則殿の隊が、動いております。暗い中を、松明も消して、静かに、前へ」
秀頼は、立ち上がった。
雨の音が、遠のいた気がした。
福島正則。
父が、いちばん最初に拾った男。
明日、旗の下で、あの人と、向き合うことになる。
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