第2話 母の条件
その夜。淀殿の居室。
行灯が一つ、畳に細い光を落としていた。
淀殿は、窓辺に背を向けて座っている。秀頼が入っても、振り向かなかった。長い沈黙が続いた。外では、昼の蝉に代わって、虫が鳴いている。
「来たましたか」
「はい」
「なぜ、そこまで出たがるのです」
秀頼は、答えに詰まった。
本当の理由は、言えなかった。霧の中の旗と、燃える何かの記憶。そんなものを口にすれば、母はいっそう怯えるだろう。
「あの旗の下に立たねば……父上の城が、いつか燃える気がするのです」
「誰に吹き込まれた」
「誰にも」
淀殿は、ようやく振り向いた。行灯の光が、頬の線をなぞる。昼の怒りは消え、ひどく疲れた顔だった。
「……太閤殿下も、そうであった」
母は、遠くを見た。
「死の床で、そなたを膝に乗せ、あの馬印を指して申された。覚えておらぬか」
秀頼は、首を振りかけて、止めた。
覚えている。伏見の、薬の匂いのする部屋。痩せた手が、自分の頭を撫でていた。
『秀頼。あの旗はな、人を黙らせる。……だが、黙らせるだけでは、人は付いてこん。そこが、ちと難儀での』
猿のような顔が、笑っていた。
あれが、父だった。
「……人を、黙らせるだけでは」
「そうじゃ。そなたの父上は、そう申された」
淀殿は、扇を膝に置いた。
「わらわは、許してはおらぬ。そなたが勝手に行くのを、止めきれぬだけじゃ。……ゆえに、三つ約せ」
「はい」
「一つ。旗の下から、一歩も出ぬこと。刃を取ってはならぬ」
「はい」
「二つ。日に一度、必ず無事を知らせる文を寄越すこと」
「はい」
「三つ」
淀殿の声が、わずかに揺れた。
「必ず、生きて戻れ。……それができぬなら、わらわは、この部屋から、そなたを一歩も出さぬ」
秀頼は、深く頭を下げた。畳に額がつく。
「約します、母上」
淀殿は、答えなかった。ただ、行灯の火を、長い間、見つめていた。
三日後。西の丸の庭。
「若君、こちらへ。お人払いは済ませてござる」
毛利輝元が、肥えた体を揺らして手招きした。松の陰が濃い。蝉が、また鳴き始めていた。
「実は、預けたい者どもがおりまする」
輝元が、咳払いをする。
「万一、内府が勝った時、拙者は秀頼様に与した覚えはないと申したい。だが、負けた時には、豊臣に義理を立てたとも申したい。……そのための、まあ、お守りのようなもので」
正直すぎる男だった。
松の陰から、二つの影が進み出た。
一人は、四十がらみの男。日に焼けた顔は、どこにでもいる百姓のようで、目だけが妙に静かだった。もう一人は、秀頼より二つ三つ年上らしい少年。細い体を硬くして、地面ばかり見つめている。
「出雲の鉢屋の者にござる。尼子の世より、山陰の闇を知る衆で。毛利が抱えておるが、拙者の家来ではない」
「鉢屋、玄斎」
男は、短く名乗った。
「息子の、小平太」
少年が、ぎこちなく平伏した。
「こ、小平太にございます。お、お目通り、かたじけのうございます」
声が、裏返った。
輝元が苦笑する。
「こやつらを、お側に置いていただければ。……ああ、御袋様には、ご内密に。こうした者どもは、お好みになりますまい」
秀頼は、二人を見た。
玄斎は、目を伏せている。毛利に飼われ、里は食えていなかったのだろう。着物の継ぎが、そう語っていた。
「預かる、のではありません」
秀頼が言った。
「召し抱えます。……里の者も、まとめて。扶持は、父上が遺された、私の蔵から出します」
「は?」
輝元が、目を剥いた。
「いや、若君、拙者が申すのは預かりで」
「預かりでは、鉢屋の方々は私のために動きませぬ」
秀頼は、淡々と続けた。
「毛利殿のお守りにはなりませぬが、毛利殿の責にもなりませぬ。それで、よろしいか」
輝元は、口をぱくぱくさせた。反論の言葉を探したが、見つからなかったらしい。
玄斎が、初めて顔を上げた。
その目が、秀頼を一度だけ見た。何かを測るように、深く、短く。
「……鉢屋玄斎、毛利の命にて参りました」
低い声だった。
「されど、若君に仕える以上、毛利の耳には、一切入れませぬ」
「お、おい玄斎」
輝元の声が、情けなく裏返る。
小平太は、平伏したまま動かなかった。肩が、小さく震えている。里の者が、食える。その意味をこの少年は誰よりも分かっているのだろう。
秀頼は、少年の前にしゃがんだ。
「小平太。私の小姓に、なってくれますか」
「は、はいっ。……い、いえ、ははっ。かたじけのう、ございまする」
目を合わせようともしない。
庭の隅で、輝元が汗を拭っていた。
八月。
大坂城に、新しい客が訪れた。
広間に現れた男は、白い頭巾で顔を覆っていた。歩みはゆっくりで、杖をついている。
「大谷刑部少輔吉継にござる」
その名を聞いた瞬間、秀頼の頭が、ふらりと揺れた。
霧の中。白い頭巾の男。誰かが、その人の首を、そっと隠していた。
一瞬だけ見えたものが、水底へ沈んでいく。
「……若君?」
「いえ」
秀頼は、座を立った。吉継の前まで歩き、そのまま、膝を揃えて座った。
吉継が、息を呑んだ気配があった。病の身を知る者は、誰も、これほど近くには寄らない。
「お顔を、拝見しても」
「……お見苦しいものにござる」
「構いませぬ」
吉継は、しばらく動かなかった。やがて、頭巾の奥から、低い笑い声がこぼれた。
「……吉継は見世物ではございりませぬぞ」
その後ろで、一人の男が、不機嫌に腕を組んでいた。眉間に深い皺。口を結んだ顔は、愛想の欠片もない。
「石田治部少輔三成にござる。……若君。戦場は、子どもの遊びではございませぬ」
「治部」
吉継が、咎めるように言った。
「事実を申し上げたまで」
「事実だが、言い方がある」
二人のやり取りは、長年の付き合いの手触りがあった。秀頼は、小さく笑った。
「承知しております、治部殿。遊びとは、思っておりませぬ」
三成は、わずかに目を見開き、それから、ふいと顔を背けた。
その時、吉継の背後から、若い武将が進み出た。
「真田安房守が次男、信繁にござる」
三十代前半だろうか。人懐こい笑みを浮かべているが、目は鋭い。
「犬伏にて、父は兄と道を分かちました。父は上田に残り、徳川の別働が中山道を通るなら、そこで止めると申しております。拙者は、大坂へ。……若君の、お側にて」
「側に?」
「大谷殿の縁にて、お許しを」
信繁は、片膝をつき、秀頼を、まっすぐ見上げた。
「戦のことは、お任せあれ。若君は、旗の下に立っていてくだされば」
秀頼は、頷いた。
周りを見回した。吉継、三成、信繁。そして、広間の隅に控える、小平太。自分の周りに、少しずつ、人が集まり始めている。
だが、まだ足りない。
彼らが、本当に、この子どもの下に残るのか。それを決めるのは、これからだった。
その夜。
誰もいない縁側に、いつの間にか、玄斎が座っていた。
「……若君」
声は、風のように低かった。
「申し上げたきことが」
「聞こう」
「小早川中納言様(秀秋)。内府殿と、密かに文を交わしております」
秀頼は、月を見上げた。
(……やはり)
その名の重さを、知っていた。
霧の中の景色が、また、水底から浮かび上がってくる。
「玄斎」
「は」
「その文、写しは取れるか」
「……お望みならば」
「頼みます」
玄斎は、短く頭を下げ、闇に溶けた。
虫の声が、遠くで鳴いている。
三日目の月が、静かに、大坂城の屋根を照らしていた。
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