第1話 金瓢箪、大坂を出る
新たな物語の始まりです!
慶長五年七月。大坂城、本丸。
夜明け前の薄明かりの中、秀頼は一人、納戸の前に立っていた。
戸は、わずかに開いている。隙間から、金色の光が細く漏れていた。
侍女たちの目を盗んで来たのは、これが初めてではない。戸を押し開けると、埃と古い木の匂いがした。その奥に、一本の旗竿が立てかけられている。
金の瓢箪が、幾重にも連なる馬印。
父が、戦場で掲げた旗。
秀頼は、そっと手を伸ばした。竿は、冷たかった。指先が、自分のものとは思えないほど小さい。
(……小さいな)
掌を、見つめる。
なぜ、そう思ったのか。自分の手を、他の手と比べたことなどない。それなのに、頭のどこかが、これは本来の大きさではないと告げていた。同じ違和感が、近頃、夜ごとに強くなっている。
この旗を、どこかで見た。
戦場の、霧の中で。そして、その後に——何かが、燃えていた。
思い出そうとすると、記憶は水の底へ沈むように遠ざかる。残るのは、焦げた匂いと、胸の奥の冷たさだけだった。
「若君」
背後で、侍女が声を潜めた。
「広間へ、お越しくださいませ。奉行の方々が、お待ちでございます」
「うん」
秀頼は、旗竿から手を離した。
(……あれは、あそこに置いておけばよい)
理由のない確信だけが、小さな胸に残った。
広間は、蝉の声に包まれていた。
上座には淀殿。傍らの小さな座に、秀頼は座る。下座には三奉行、前田玄以、増田長盛、長束正家。少し離れて、毛利輝元が肥えた体を固くして控えている。
「内府殿の所業、もはや看過できませぬ」
長盛が、書状を広げた。
「上杉征伐を名目に東へ下られたが、その実、太閤殿下の御遺命に背き、諸大名と無断で縁組を結び、知行を勝手に分け与えておられる。大老の合議も、形ばかりにございます」
「聞いておる」
淀殿が、扇を握りしめた。
「わらわに、何をせよと申すのじゃ」
奉行衆が、顔を見合わせた。
「内府殿を糾す書状を、諸大名へ発したく存じます」
正家が、膝を進めた。
「その書状に、秀頼様の御名をお借りしたい。御名があれば、これは私戦ではなく、公儀の討伐となりまする」
「待たれよ」
玄以が、低い声で割って入った。
「御名を借りるのは容易い。だが、福島、加藤、黒田……太閤殿下の子飼いの方々は、内府殿の側におられる。書状一枚で、彼らが槍を収めるとは限りませぬ。勝てなんだ時、秀頼様のお名は、地に落ちる」
「勝てばよいのです」
長盛が、苛立ったように言った。
「兵糧も、兵の数も、こちらが上。毛利殿の軍勢が加わるなら、なおのこと」
「数字の話ならば、拙者に任せよ」
正家が、懐から帳面を取り出した。
「大坂の蔵には、三十万石の兵糧がある。が、長陣を支えるにはまだ足りぬ。東の動きを見ながら、決めねばなりませぬ」
三人の言い分は、噛み合わなかった。玄以は慎重に、長盛は急進に、正家は計算に傾いている。輝元は、三人の顔を順に見やり、小さく咳払いをしただけだった。
秀頼は、黙って聞いていた。
奉行衆の言葉の底に、不安が流れている。皆、分かっているのだ。自分たちだけでは、内府に勝てないことを。だからこそ、秀頼の名が欲しい。それは、旗の代わりに紙を使おうとする、苦しい工夫だった。
「名を、借りると申されたな」
幼い声が、広間に落ちた。
蝉の声が、一瞬、遠のいた。
「紙は、読む者にしか届きませぬ。……旗は、読めぬ者にも見えまする」
玄以が、眉を寄せた。
「若君、何を」
「私が、出ます」
誰も、息をしなかった。
「……なりませぬ」
淀殿の声は、掠れていた。
「なりませぬ。そなたはまだ、馬にも満足に乗れぬではないか。戦場など、論外じゃ」
「馬には、乗らずともよいのです」
秀頼は、淀殿を見上げた。
「あの旗の下に、立っていればよい」
「戯れ言を!」
扇が、畳を打った。
奉行衆が、身を竦める。淀殿の顔は、白かった。唇が、震えている。
「戦場に出た者が、どうなるか。……そなたは、知らぬ」
母の声が、ひどく小さくなった。
「わらわは、見た。小谷で、父上が。北ノ庄で、母上が。城が燃え、人が死ぬ様を、この目で。……二度も、じゃ」
広間が、静まり返った。
誰も、淀殿の過去に触れようとはしなかった。それが、この城の暗黙の了解だった。
「三度目は、見とうない」
秀頼は、母の手に、そっと目を落とした。扇を握る指が、白くなっている。
この人は、怖いのだ。
内府でも、戦でもない。自分を失うことが、怖いのだ。
それが、分かった。分かった上で、引き下がるわけにはいかなかった。
「母上」
「ならぬと言ったらなりませぬ」
「福島殿は、父上に拾われました」
秀頼は、言葉を選んだ。
「加藤殿も、黒田殿も、浅野殿も。父上の旗の下で、育ちました。あの方々は、内府殿に従っておられるが、父上の旗に槍を向けられますか」
誰も、答えなかった。
玄以が、ふと目を伏せた。長盛が、唾を飲んだ。
「……向けられぬ者も、おりましょう」
やがて、正家が、呟いた。
「向けられぬ者が、一人でもおれば、東は割れる。その一人を、見つけるために、旗が要るのです」
秀頼は、頷いた。
子どもの理屈だった。だが、大人の誰も、反論できなかった。
「若君。お気持ちは分かりますが、総大将は、拙者が」
輝元が、ようやく口を開いた。
「毛利殿は、大坂にいてくださいませ」
「……は?」
「この城を、お守りいただきたいのです。私と、母上のいる、この城を」
輝元は、口を開きかけて、閉じた。その目が、秀頼と、淀殿と、奉行衆とを、順に彷徨う。迷っている。どちらにつくのが得か、まだ決めかねている目だった。
「下がりなさい、秀頼」
淀殿が、短く言った。
秀頼は、一礼して立ち上がった。反論は、しなかった。ここで押せば、母は意地になる。それだけは、なぜか分かっていた。
廊下に出ると、蝉の声が、いっそう大きくなった。
背後で、広間の戸が閉まる気配がした。
その時、侍女が、足早に追いついてきた。
「若君。母君様より、お言伝にございます」
秀頼は、振り返った。
「『夜に参れ。聞くだけは、聞く』と」
秀頼は、小さく息を吐いた。
母は、怒っている。だが、拒んではいない。
夜が来るまでに、言葉を、決めなければならない。
蝉が、鳴いている。
大坂の、長い夏が、始まろうとしていた。
数ある作品の中から本作を閲覧してくださり、ありがとうございました。
続きが読んでみたいと思えましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




