第8話 元婚約者(2)
ある冬の日、外では雪が降っていた。暖炉の火がついていて部屋の中は暖かいはずなのに、私の指先はずっと冷たかった。
彼は向かいの椅子に座っていた。彼は、私が昼間に一人で庭に出たことを知っていたのだ。花を摘みに庭に出たのはほんの短い時間で、戻る途中で庭師と少し言葉を交わしただけだった。しかし彼は、私が庭師と話していたことを問題にした。
『なぜ、俺に言わずに庭に出た』
『は、花を飾りたいと言われたので……。すぐに戻るつもりでした』
『庭師と何を話した』
『花の種類について尋ねただけです』
『なぜ笑っていた』
私は答えに詰まった。笑ったことまで責められるとは思わなかった。
『……覚えていません』
『覚えていない? 俺に黙って他の男と話し、それを覚えていないと言うのか』
『彼は庭師で、既婚者です。特別な意味はありません』
『お前が意味を決めるな』
そのあと、彼は黙り込んだ。私は、彼が何も言わなくなったことが怖かった。何を考えているのかがちっともわからなかった。
私は沈黙に耐えられず、何度も彼の顔を見た。そして、ついに尋ねてしまった。
『……何か、わたくしにできることはありますか?』
彼はゆっくりと顔を上げて、冷たい目で私を見た。
『どうしてそのようなことを聞く』
『いえ……少し、閣下のご機嫌が悪いように見えたので』
『俺の機嫌を取ろうとしたのか?』
彼の声が低くなって、背筋が冷たくなった。
『そ、そういう、つもりでは……』
言い終わる前に、彼が立ちあがった。私は反射的に椅子から立とうとしたけれど、足が動かなかった。逃げたいのに、逃げれば余計に怒らせてしまう。だから私は、その場で彼を待つことしかできなかった。
彼の影が、暖炉の明かりを遮る。窓の外では白い景色が広がっているのに、私のいる場所だけが閉じ込められたように息苦しかった。
『お前は、俺の言うことに従っていればいい。余計なことを考える必要はない。すべて俺の指示通りに動け。お前は俺の婚約者なのだから、それが嫌なら最初から俺のものになる約束などしなければよかった』
『わたくしは、そんなつもりで——』
『そんなつもりではなかった、と?』
彼は笑った。その笑みには、ひとかけらも優しさがなかった。
『お前はいつもそうだ。俺を苛立たせるのが上手い。俺がどれだけお前を見ているのか、どれだけお前を守ろうとしているのか、何も理解していない』
守るという言葉を聞いた時、強い疑問を抱いた。彼は私を守っているのではない。私が自分の意思で動くことを許さず、私の時間も言葉も交友関係も、すべて彼の手の中に置こうとしているだけだ。
けれども、この疑問を言葉にする勇気はなかった。
『俺は、お前を誰にも渡さない』
彼は私の腕を掴んだ。
『お前が嫌がっても、逃げたとしても、俺の婚約者であることには変わりない。お前がどこへ行こうと、俺は必ず連れ戻す』
指が食い込み、痛みで視界が滲んだ。
『……痛いです』
ようやくそう言うと、彼は微かに目を細めた。
『ならば、これから俺を怒らせないことだな』
彼にとって、私が痛がっていることは何の問題でもない。私が痛がる原因を作った彼自身を省みるのではなく、私が彼を怒らせたことだけを問題にしていた。
やはり私は何も言えず、ただ従順に頷いた。それでも、彼の機嫌は直らなかった。
何が悪いのか、私には分からなかった。分からないまま、ただ謝った。何度も何度も、謝った。
そして、ある日。彼の手が私に向けて伸ばされた時、私は無意識に身体を強張らせてしまった。それを見た彼が、不機嫌そうに言った。
『なぜ怯える』
私は答えられなかった。怖いからと、そう言えば良かった。嫌だからやめて、と言えば良かった。それなのに、当時の私にはそんな言葉を口にすることさえできなかった。
私はただ、『……ごめんなさい』と答えた。それしか言えなかったのだ。
彼は私の顔を覗き込み、涙の滲んだ私の怯えた表情を見て、満足したように口元を緩めた。
『そうやって大人しくしていればいい。お前は俺の言うことだけを聞いておけ。そうすれば、何も怖いことはない』
その言葉が、今でも耳に残っている。彼は、私が彼に逆らわないことを確認して、満足していたのだ。私が怯えて泣いていることも、彼の支配が届いている証だったのだ。
その日の夜、自室の鏡の前に立った私は、自分の腕に残った痕を見ながら、初めて思った。
——このままでは、私が私ではなくなってしまう。
その考えが浮かんだ瞬間、涙が止まらなくなった。嗚咽を漏らせば誰かに聞かれると思って、口元を手で押さえた。
窓の外の雪をぼんやりと眺めながら、私はずっと考えていた。
どこかへ行きたい。ここではない場所へ。彼の機嫌を気にせずに眠れる場所へ。誰かに触れられることを怖いと思わなくていい場所へ。私の手紙を勝手に破られず、友人と話すことを責められず、笑った理由を説明しなくてもいい場所へ。私が誰のものなのかを、他人に決められなくてもいい場所へ。
その何日か後。久しぶりに会うことを許された母に、私の腕の痣を見られた。私は隠そうとして、いつものように「何でもない」と笑おうとした。
けれど母は何も聞かず、ただ私の腕をそっと包むように手に取って、長い間黙って見つめていた。その手があまりにも温かくて優しかったから、私は耐えられなくなった。堪えていた涙が、一気にこぼれたのだ。
『お母様……私、どうしたらいいの』
母はすぐには答えなかった。ただ私を抱きしめて、何度も背中を撫でてくれた。そして、優しい声で言ったのだ。
『あなたが生きていられる場所を、自分で選びなさい』
その翌日、母は亡くなった。母の言葉が、私の背中を押してくれた。
◇ ◇ ◇
「……以前、婚約者がいたのです」
気づけば私は、目の前の皇帝陛下にそんなことを話していた。皇帝相手に何を話そうとしているのかと思ったが、言葉は止まらなかった。
「家同士で決められた方でした。外では、とても評判のいいひとでした。ですからわたくしが何をされていたのかを話しても、きっと誰にも信じてもらえなかったと思います」
陛下は黙って聞いている。
「でも二人きりになると、怒った時にわたくしの腕を強く掴んだり、逃げようとすると引き戻したり、わたくしが嫌がっていることを理解していても、自分の思い通りになるまでやめてくれない人でした」
私は一度、言葉を止めた。喉の奥が乾いていたけれど、ここで黙ってしまえば、また何もなかったことにしてしまう気がしたのだ。
「わたくしの手紙を勝手に読んだり、友人と会うことを禁じたり、どこへ行くのか、誰と話すのか、何を着るのかまで決めようとしたりして……わたくしが嫌だと言うと、『婚約者なのだから当然のことだ』と言われました。彼は、わたくしを愛していたわけではないと思います。わたくしが何を感じているのかには興味がなくて、ただわたくしを自分のものにしておきたかっただけなのです。わたくしが自分で何かを決めることさえも、許せない人でした」
言葉にしてしまうと、胸の奥に沈んでいたものが少しずつ形を持っていくような気持になった。
「わたくしが謝ると、彼は安心したように笑いました。わたくしが逆らわないことを、愛されている証ではなく、自分の言うことを聞かせられている証として喜んでいたのだと思います」
そこまで話したところで、陛下の目の色が変わった。怒っていらっしゃる。けれど、その怒りは私には向けられていない。だから、大丈夫。
「……もう大丈夫だ」
低くて、優しい声だった。
「誰もお前に何かを強制させることはできない。お前が嫌だと言ったことを、嫌だと言ってもいい」
その言葉を聞いて、胸の奥に忘れていた感覚が広がる。
——嫌だと言ってもいい。そんな当たり前のことを、私はずっと忘れていた。
「お前が誰かの機嫌を損ねないために、自分を小さくする必要もない。私の前では、怯えて謝る必要はない」
私は唇を噛んだ。泣きたくなったのだ。どうして泣きそうになったのか……昔を思い出したからなのか。それとも、初めて「嫌なものを嫌だと言ってもいい」と言ってもらえたからだろうか。
私は俯いたまま、小さな声で言う。
「……ありがとうございます」
陛下はしばらく何も言わなかった。ただ私が落ち着くまで、待っていてくださった。
……あの人なら、私が泣けば「面倒だ」と怒ったのに。陛下は決して怒らずに、私に寄り添ってくださる。
陛下のお側にいることは、私が思っていたほど怖いことではないのかもしれないと、そう思ってしまった。




