第7話 元婚約者(1)
「そこに置いてくれ」
「こちらでよろしいのでしょうか。確認が必要なものがあれば、分けておきます」
「助かる。お前に任せておけば仕事が滞らないから、随分と楽になった」
「それは……ありがとうございます」
「それだけか? 褒められたのだから、もっと嬉しそうな顔をすればどうだ」
そんなことを言われても困ってしまう。私は机の上に書類を並べながら、どうにか笑顔を作った。
「陛下からそのように仰っていただけることは、とても光栄なことだと存じております。ですがわたくしは自分の仕事をしているだけですので、特別なことをしているという感覚はあまりなく……」
「ふ。お前は、褒められることを目的に動こうとしない。誰かに媚びることもなく、私はそういうところを好ましく思っているぞ」
まただ。最近の陛下は、こういうことを平然と言う。以前ならどうしていいか分からず固まっていたかもしれないけれど、今は少しずつ分かってきた。この方は、思ったことをそのまま口にする人なのである。こちらがどう受け取るかなどお構いなしに、こちらの心臓に悪い言葉を次々と投げてくる。
私は書類から顔を上げて、陛下を盗み見た。そして、ふと思う。
——この人に嫌われることは、できないのだろうか。
私はいずれ、後宮を出たい。そのためには、いつまでの皇帝陛下の側に置かれているわけにはいかない。だが今の私は陛下に気に入られているらしいので、そう簡単にはいかないだろう。
それならば、陛下に気割られればいいのではないだろうか。仕事を失敗して、愛想をもっと悪くして、処罰されない程度に陛下の希望に逆らえば、きっと「この女は自分の側に置く価値はない」と思っていただけるかもしれない。
あからさまに反抗するのは怖いので、少しずつ距離を取っていこう。そう、私は密かに決意した。
——少なくとも、昼食の時間までは。
昼食の時間になると、案の定私は陛下に呼び出された。
「リナ。今日も私の食事に付き合え」
「申し訳ありません。午後の仕事の準備がございますので、私は別室で食事を済ませようと思っています」
言えた。普段なら「承知いたしました」と答えることを、きちんと断れた。これを積み重ねれば、いつか陛下も私への興味を失ってくださるはず。
ところが……。
「そうか。ならば、私もそちらで食べよう」
「……え?」
「お前が別室で食べるというなら、私がそちらへ行けばいい」
「いえ、それでは意味がありません」
思わず口に出てしまった。陛下が眉を上げて、じっと私の目を見つめている。まずい、怪しまれた。
「その……陛下は皇帝陛下なのですから、わたくしのような侍女の仕事に合わせていただく必要はないという意味です」
「お前が侍女であろうが何だろうが構わない。私はお前と食べたいだけだ」
どうしてこうなるのだろう。距離を取ろうとしても、なぜか陛下のほうから距離を詰めてくる。それどころか、私が避ければ避けるほど嬉しそうにしているようにすら見える。
陛下の表情を見ていると、ふと昔のことを思い出した。元婚約者のことだ。どうして、思い出してしまったのだろう。
◇ ◇ ◇
婚約が決まったばかりの頃、彼のことを怖いと思ったことはなかった。借金のことがあるとはいえ、家柄が良い相手との婚約だったし、良い縁談だと周囲の人々は言っていた。私自身も、そう思おうとしていた。婚約者なのだから、これから好きになっていけばいい。夫婦になるにしても、多少に意見の違いがあるのは当然なのだと。
しかし、彼が私に向けていたのは、愛情ではなかった。彼は私を一人の人間として見たことはなかった。私が何を望むかよりも、彼が私をどう管理できるかのほうが彼にとっては重要だったのだと思う。
最初に違和感を覚えたのは、些細なことだった。雨が降っていた日の夕方、彼の向かいに座って、その日の昼に届いた友人からの手紙について話していた。「来月、一緒にお茶をしたいと誘われました」と話して、彼は黙って聞いていた。
しばらくして、彼は尋ねた。
『誰と会うんだ』
私は友人の名前を答えた。すると、彼の表情が変わった。ほんのわずかな変化だったけれど、それまで私を見ていた目から温度が消えたのだ。
『婚約者がいる身で、他の男と親しくする必要があるのか』
私は慌てて首を横に振った。
『男性ではありません。昔からの友人で、女性です』
そう答えたのに、彼の機嫌は戻らなかった。彼は椅子から立ち上がって私の前で止まると、私が手に持っていた手紙に視線を落とした。
『見せろ』
『ええと、こちらは友人からの私信なので——』
『俺に見せられない内容なのか』
彼の声は荒くなかったけれど、逆らってはいけないと分かった。私は震える手で手紙を持ち上げて、彼に差し出した。彼はそれを受け取ると、便箋を開き、書かれている内容を一行ずつ確かめるように呼んだ。その間、私は息を詰めていた。
友人からの手紙には、他愛のない近況と、来月のお茶会の誘いしか書かれていない。それでも彼は、まるで私の罪を探すように何度も紙面へ目を走らせた。
やがて彼は手紙を折りたたんで、私の目の前でそれを破った。紙の避ける音が、やけに大きく聞こえた。
『……な、なぜ破るのですか』
『必要ないからだ』
『ですが、友人からの大切な手紙で……』
『俺が必要ないと判断した。お前が持っている必要はない』
彼は破いた便箋を雑に放り投げた。
『来月の茶会は断れ』
『あの、友人と久しぶりに会う約束で——』
『俺が断れと言っている』
彼は私の言葉を遮った。窓の外では雨が降り続いていて、暖炉の火が消えかけていた。
私は膝の上で、強く手を握りしめた。
『……分かりました』
そう答えたのに、彼は満足しなかった。
『返事が軽い』
『申し訳ありません。お茶会はお断りしておきます』
『それだけではない。今後、その友人とは会うな。手紙も受け取るな。俺に隠れて連絡を取ることは許さない』
『そこまでしなくても。わたくしは、婚約者としての節度を守っております』
私が顔を上げてそう言った瞬間、彼の顔から温度が消えた。
『節度を守るというのは、俺が許した相手とだけ話すことだ』
『でも、わたくしの友人まで閣下に決めていただくのは——』
最後まで言うことは許されなかった。手首を強い力で掴まれたのだ。指が食い込んで、とても痛かった。しかしそれより先に頭に浮かんだのは、どうして彼を怒らせてしまったのだろう、ということだった。
『ごめんなさい』
反射的に謝ると、彼は少し力を緩めた。私はほっとしたけれど、今思えばそれも怖い。痛みがなくなったことで、彼が「優しくなった」と感じてしまった自分が。
彼は私の手首を掴んだまま、低い声で言った。
『俺は、お前を誰かに奪われたくない』
その言葉だけを聞けば、愛情のように聞こえたかもしれない。けれども彼の目にあったのは愛などではなく、ただ自分の所有物を取り上げられたくないという苛立ちだけだった。
『お前は俺の婚約者だ。俺の許可なく誰かと親しくするな。俺の知らないところで笑うな。俺の知らない相手に、お前の時間を渡すな』
私は何も、言えなかった。
『分かったか』
『……はい』
『返事をするだけではなく、身に染みて覚えておけ。お前が誰のものなのかを、決して忘れるな』
彼はそう言って手を離した。赤くなった手首を隠すように袖を引き下ろしながら、私は何度も頷いた。
その日の夜、ベッドに入ってからも手首に残っていた痛みが気になった。袖をめくると、そこには指の形が分かるほどに赤くなった痕が残っていた。
私はそれを見つめながら、これくらい大したことではないと思った。これは、誰にでもあることなのだと。婚約者なのだから、嫉妬することもあるのだろうと。私がもっと気を付けたら、二度とこんなことにはならないのだと。
そう思おうとしたのに、一度始まったことはそれで終わらなかった。
彼は私の交友関係を、少しずつ狭めていったのだ。私が誰と話したのか、なぜその人と話したのか、どのくらいの時間話していたのか、相手はどんな目で私を見ていたのかなど、すべて話すことが義務づけられた。帰宅が予定より少し遅れただけで、どこにいたのか、誰といたのか、なぜ連悪をしなかったのかと問い詰められた。
私が答えれば答えるほど、彼は私を疑った。
『その説明では足りない』『何か隠しているだろう』『俺に言えないことがあるから、そんな顔をするのではないのか』
彼は私の返事を聞きたいのではなかった。最初から、自分が納得するまで私を追い詰めるつもりだったのだ。
私宛てに届いた手紙は、必ず彼が先に目を通すようになった。私が身に着ける服も、髪型も、外へ出る時間も、誰と会うのかも、彼の許可が必要になった。
彼はそれを、「婚約者として当然のことだ」と言った。私が嫌がれば、「これはお前のためだ」と言った。私が黙れば、「やましいことがあるから答えられないのだろう」と言った。
そしていつの間にか、私は彼の機嫌を損ねないことばかりを考えて暮らすようになっていた。彼の機嫌が良いことを願い、声が低いと私が何か失敗したのではないかと怯える。食事の席ではどんな話題なら怒らせないかを考え、笑う時でさえ笑いすぎてはいけないと思うようになった。
彼以外の人と楽しそうに話してはいけない。彼の前で誰かを褒めてはいけない。彼が知らない予定を作ってはいけない。彼が気に入らないものを身に着けてはいけない。
そうやって一つずつ自分の行動を制限していくうちに、私は自分が何をしたいのかさえ分からなくなっていった。




