第6話 噂
後宮という場所では、噂が広まるのが恐ろしく早い。それを私は身をもって知ることになった。
「……どうして皆、私を見ているのかしら」
廊下を歩きながら、私は何度目になるか分からないほど小さく呟いた。朝の仕事を終えて皇帝陛下の執務室に向かっているだけなのに、すれ違う侍女たちがちらちらとこちらを見てくる。少し離れた場所では何人かが顔を寄せ合って何かを囁き、さらには私が通り過ぎた瞬間にひそひそと会話を始める者までいる。
最初は自意識過剰だと思っていたけれど、それらの人々と目を合わそうとするとすぐさま逸らされてしまうので、さすがに気のせいではないなどと気づいた。
原因など、考えるまでもない。後宮に来て数日の新人が、突如皇帝陛下直属の特別侍女になり、加えて陛下から贈り物までもいただいた。目立たないほうが難しいというものだろう。
「……お願いだから、誰も私に興味を持たないで」
私は足早に廊下を進んだ。ところが——。
「あなたが、リナさん?」
突然、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには三人の侍女が立っている。そのうち中央にいる女性は、私よりも年上だろう。貴族令嬢にも見えるような美しい顔立ちをしていて、侍女服もよく似合っているけれど、その笑顔にはどこか探るような色がある。
「はい。何か御用でしょうか」
「あなたとお話したいのだけれど、今時間はあるかしら」
「申し訳ありません。これから陛下のお部屋へ向かわなければなりませんので、急いでおります」
「あら、まあ」
女性が微笑んだ。
「さすがは陛下直属の特別侍女ね。朝から皇帝陛下のお側へ向かわれるなんて、ずいぶんとお忙しいこと」
ただの感想のようにも聞こえるけれど、その言葉には明らかな棘がある。私はどう答えればいいのか分からず、曖昧に笑った。
「仕事ですので。わたくしとしては、以前と何も変わらないつもりなのですが……」
「そうなの?」
「はい。陛下のお茶をお淹れしたり、書類をお運びしたり、身の回りのお手伝いをさせていただいたりするだけです」
「それだけ、ねえ」
女性の隣にいた侍女が口元を押さえながら笑う。
「それだけのお仕事で、専用のお部屋までいただいたという話を聞いたのだけれど」
「……それはわたくしにもよく分からなくて」
本当に分からない。私は困り果てて正直に答えた。
「わたくしは特別なことをしたつもりはありません。陛下からいただいたものも、身に着けるようにと言われたのでつけているだけで、わたくし自身がお願いしたわけではありません」
今日も首元にはあの首飾りがついている。そっとそれに触れると、三人の視線が一斉に首元に集まった。
「……綺麗な首飾りね」
「ありがとうございます。ですがわたくしはこういうものには詳しくなくて……」
「皇帝陛下直々からいただいたものなのでしょう? ずいぶん大切にされているのね」
その言い方に、胸の奥がざわついた。
「いえ、そういう意味ではなくて。昨夜の件への褒賞だと伺っています」
「褒賞、ね。ではわたしたちも今度、陛下をお守りするようなことをすれば、同じようにいただけるのかしら」
「それは……わたくしには分かりません」
「真剣に答えちゃって。冗談よ」
彼女は笑った。しかしその目は笑っていない。
「それにしても、あなたは不思議な人ね。陛下は大変気難しいお方なのに、あなたにはずいぶんと心を許していらっしゃるようだから」
「……心を許している、というほどではないと思います。陛下はただ、お仕事に必要なことをおっしゃっているだけですし……」
「では、陛下が毎日あなたを呼びつけているのも仕事のうちなのね。あら、ご自覚がないのかしら?」
確かに、陛下は何かと私を呼び出してくる。それはただ、彼が私をこき使っているだけなのだと思っていた。
「……仕事が増えて大変だな、とは思っています」
三人は黙り込んだ。しかしすぐ、中央の女性が笑う。
「ふふっ。あなた、変わった人ね」
どうやら私は、また何か間違えてしまったらしい。どうこの場をおさめようと思っていると、凛とした声が聞こえてきた。
「そこまでにしておきなさい」
その声を聞いて、三人の侍女は一斉に姿勢を正す。振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。淡い金髪を上品にまとめ、落ち着いた色のドレスを纏っている。後宮にいる女性たちの中でも、ひときわ気品のある人だ。
彼女のことは私でも知っている。第一側妃であるセレーナ様だ。皇帝陛下の側妃になるくらいなので、とても高貴なお方である。
「セレーナ様」
侍女たちが頭を下げる。セレーナ様は三人を一瞥したあと、穏やかな口調で続けた。
「陛下直属の侍女を呼び止めて、勤務に支障が出るほど長く話し込むというのは感心しませんね。あなたたちが彼女と何を話していたのかは知りませんが、少なくとも今のあなた方の態度は歓迎しているようには見えませんでした」
「そのようなつもりでは……」
「ならば、なおさら今後は気を付けなさい。言葉というものは、本人に悪意がなくても、受け取る側には違って聞こえることがありますから」
その声はおっとりとしているのに、強い。三人は何も言い返せないようだ。そして彼女らは、謝罪をして足早にその場を去っていった。
私はその背中を見送り、ほっと息を吐いてからセレーナ様に頭を下げる。
「助けていただいて、ありがとうございます」
「気にする必要はありません」
セレーナ様は優しく微笑んでくださった。
「ただ、あなたには少し事情を知っておいてもらったほうがよさそうですね」
彼女は私の首元に視線を向ける。
「その首飾りが主な原因でしょうね。そして、あなたが陛下の直属となったことも」
「……わたくしはやはり、目立っているのでしょうか」
「後宮では、陛下から特別な扱いを受ける女性はどうしても目立ちますからね」
「ですがわたくしはただの侍女です」
私がそう言うと、セレーナ様は困ったように笑った。
「あなた自身には何の意図もないのでしょうけれど、陛下があなたを側に置くことを望んでいるということだけで、周囲からすれば十分な意味を持つのですよ」
私は頭を抱えたくなった。
「困りましたね……」
「何が困るのです? 陛下から寵愛を受けることは、悪いことではないと思うのですけれど」
「わたくしは、できるだけ目立たずに働きたいのです」
「その理由を聞いても?」
「ええと……」
借金と元婚約者から逃げてきて、いずれ遠い場所に逃げるためであると正直に言うことなんてできない。だから私は、当たり障りのない答えを探した。
「わたくしは、静かな生活が好きなのです」
「そうなのね」
明らかに誤魔化している答えであるのにセレーナ様はそれ以上追及しなかった。
「ですが、あなたはあなたが思う以上に陛下に気に入られていると思いますよ。あなたが陛下付きになってから、陛下は随分と機嫌がよろしいのですよ」
「……それがわたくしには理解できないのです。わたくしは陛下の前ではいつも挙動不審ですし、できるだけ近づかないようにしていますし、会話も必要最低限にしています。それなのにどうして陛下がわたくしを気に入るのか、わたくしにはまったく分からないのです」
セレーナ様は、しばらく私の顔を見つめた。そして、「なるほど」と言いながら何かに納得したように微笑む。何か私が変なことをしたのだろうかと尋ねようとしたその時。
「ここにいたのか」
聞きなれた低い声がした。廊下の向こうから、皇帝陛下が歩いてくる。陛下は私とセレーナ様を見ると、足を止めた。
「セレーナ。朝の謁見のあと姿を見かけなかったな。何か用があったのか?」
「少し、こちらの侍女と話をしておりました。陛下におかれましては、お変わりなくお過ごしでしょうか」
「ああ。お前は、午後の茶会に出るのか」
「公務に差し支えなければ、出席する予定でございます」
「そうか。無理をする必要はないが、出るなら後で顔を見せてくれ」
「承知いたしました」
陛下の声には礼儀正しさとセレーナ様に対する配慮を感じたけれど、そこに特別な熱はないように感じられる。セレーナ様もまた穏やかに応じているけれど、陛下を見つめる目に恋情らしいものはちっとも浮かんでいない。
二人の間には皇帝と第一側妃としての確かな信頼と、お互いの立場を守るための理解があるのだろう。それでも、それ以上のものはないのかもしれない。陛下がどの女性に対しても特別な目を向けないということは周知の事実である。
セレーナ様が一礼してその場を離れると、陛下は私に目を向けた。
「リナ。来るのが遅かったな。何かあったのかと思ったぞ」
「申し訳ございません。セレーナ様とお話をしていただけで、すぐに向かうつもりでした」
「ならば、私が迎えに来る必要はなかったな」
陛下はそう言いながら、私の首元に手を伸ばす。
「やはりその髪飾りはお前に合っている」
「ありがとうございます。陛下からいただいた大切なものです」
「……ああ、そうか。大切なものか」
陛下の周りにいる人々が息を呑んでいる。陛下はそんな周囲の反応に気づいていないのか、それとも気にしていないのか、そのまま私の目を見つめ続けている。
「仕事を終えたら、私と夕食を共にしろ」
「……わたくしは侍女ですので、陛下のお食事の席に同席するのは問題があるのでは……」
「私が許可する。それに、お前はろくに食事をとっていないだろう」
「どうしてご存じなのですか?」
皇帝陛下が一介の侍女の食事量まで把握しているとは……恐ろしい。
「陛下、わたくしのことをそこまで気にかけていただく必要はありません。わたくしは自分でちゃんと食事を摂りますし、仕事にも支障はありませんから」
「お前が何と言おうと、私が気になるからお前を見ている。ただそれだけだ」
私は何も言えなくなった。その言葉の意味を、深く考えたくなかった。考えてしまえば、何かとても面倒なことに巻き込まれてしまう気がする。しかし陛下はそんな私の心境に気づいているのかいないのか、私の肩に視線を向けるとふっと目を細めた。
「それから、この後は私の執務室を訪ねるように」
「書類整理の仕事を申し付かっているのですが……」
「それは私の部屋でやれ。お前は、私の傍にいろ」
心臓が大きく跳ねた。これは、とてもまずいのではないだろうか。私が思う以上に、私は陛下に気に入られているのかもしれない。




