第5話 大幅昇級
私は自分の目を疑った。差し出されてた一枚の紙とその紙を持ってきた侍女長の顔を、交互に何度も見比べるしかできない。
「……申し訳ありません。もう一度だけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです。ですが内容は先ほどお伝えした通りでございますので、どうかご安心くださいませ」
「安心できる要素が、どこにあるのでしょうか……」
思わず本音が漏れてしまった。侍女長は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「昨夜の一件を受けまして、皇帝陛下より正式にお達しがございました。今後、あなたは一般の侍女ではなく、陛下直属の特別侍女としてお勤めいただきます」
私は紙を見下ろした。そこには確かにこう書かれている。私が皇帝直属の特別侍女となり、衣食住の待遇改善や専用の部屋、給与の増額が与えられると。さらに、皇帝陛下の許可なく配置転換を行わないこと——。
「これはつまり……私、辞めにくくなったということでしょうか」
侍女長の笑顔が少し固まった。
「より厚遇されたとお考えいただければよろしいかと」
「ですよねー……」
私は深くため息をついた。違う。私が欲しかったのは厚遇ではない。目立たないことである。皇帝陛下の目の留まらなくて、少しずつお金を貯めて、頃合いを見て後宮を出る。それが私の計画だったのに、どうしてこうなったのだろう。
私はただ、皇帝陛下を襲おうとした男にフライパンを一撃おみまいしただけなのに。しかも私自身は何ひとつ格好良くなかった。足は震えていたし、腰はほとんど抜けていたし、男を殴ったあとには怖くて何もできず、畏れ多くもそのまま陛下に支えていただいただけだ。それなのに……。
「それから、こちらを」
侍女長が別の箱を差し出してきた。
「……これは?」
「皇帝陛下から、あなたへの贈り物でございます」
「…………」
嫌な予感しかしない。恐る恐る箱を開けると、中には細い金の鎖に小さな青い宝石が一粒ついた、美しい首飾りが収められていた。宝石は光を受けて淡く輝いて、決して派手ではないのに見るからに高価だと分かる。
「こ、これは……」
「昨夜、陛下をお救いになったことへの褒賞だそうです」
「褒賞なら、お金ではいけなかったのでしょうか……」
私が小さく呟くと、侍女長は困ったように笑った。
「陛下にそのように申し上げる勇気があれば、ですね」
「流石にそんな勇気はありませんね……」
こういう宝石は売ればお金になるのだろうけれど、皇帝陛下からいただいた品を売るなんてことをしたら処刑ものだろう。お金なら逃げるために使えたのに……。
私は、首飾りをそっと箱の中に戻した。
「……こちらは、部屋に飾らせていただきます」
「身に着けていただきたいとのことです」
「……」
「これから毎日」
「…………」
私は天を仰いだ。当たり前のことだが天井しか見えない。
「それから、あなたの新しいお部屋にご案内いたします」
「え?」
侍女長に連れられた先は、これまで私が使っていた部屋よりもずっと広く、窓も大きく、家具も上質なものばかりが置かれていた。寝台には天蓋までついていて、机には見たこともないほど上品な化粧品が並べられている。勧められて衣装棚を開ければ、私が今まで着ていたものより明らかに質のいい侍女服が何着も収められていた。
「こちらは陛下の御命令で用意されたものでございます。必要なものがございましたら、遠慮なくお申し付けください」
「必要なもの……」
私は部屋を見回した。
「……ありません」
「でしたら、何か欲しいものができましたら——」
「いえ、本当に何もいりません」
むしろ全部返したい。こんな部屋に住んだら、出ていくのが惜しくなってしまうではないか。いや、私は絶対に出ていく。そのために後宮に入ったのだから。
私は胸の奥でそう言い聞かせながら、侍女長が去っていくのを見送った。扉が閉じた瞬間、私はその場にへたり込んだ。
「……どうして」
私以外誰もいない部屋に、私の呟きだけが落ちる。
「どうして私は、皇帝陛下からどんどん離れられなくなっているの……?」
答えてくれる人はいなかった。
そして、その日の午後。私はさらに頭を抱えることになる。
「リナ。待っていたぞ」
執務室へ入った私を、皇帝陛下は書類から顔を上げて迎えた。変わらない整ったお顔だけれど、以前とは何かが違って見える。少なくとも私を見る時には、その鋭い瞳から警戒心が消えているのだ。
「こちらへ来い」
「……はい」
私は距離を取ったまま彼に近づく。すると彼は眉を寄せた。
「なぜそのように離れている」
「いえ、あの……わたくしは侍女ですので、必要以上に近づくのは失礼かと思いまして」
「昨夜は私のすぐそばまで走ってきただろう」
「あれは……緊急事態でしたから」
「では、今は緊急事態ではないから近づかないということか」
「その認識で間違っていないと思います」
取り繕うのも面倒なので正直に答えると、陛下はしばらく黙って私を見つめた。何かまずいことを言ってしまっただろうか。緊張しながら視線を伏せていると、陛下は小さく息を吐いた。
「……お前は、まだ私を恐れているのだな」
「はい」
「隠そうともしないのか」
「隠した方がよろしいのであれば、そのようにいたします」
私の言葉に、陛下は口元を緩める。
「いや。そのままでよい」
私はとにかく困惑してしまった。普通皇帝陛下に怯えていることを堂々と認めたら、咎められるものではないのだろうか。しかし彼は怒るどころか、むしろ面白そうに私を眺めている。
「昨夜、お前は私を助けた。そのことについて、何か褒美が欲しいとは思わなかったのか」
「思いませんでした」
「それはなぜだ?」
「褒美をいただくほどのことをしたと思っていないからです。わたくしはただ自分が助かりたかっただけですし、むしろ陛下の動きを制限させてしまいましたし……」
そこまで言ったところで、陛下の表情が変わった。何かを考えるように目を細めると、椅子から立ち上がる。そして、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「リナ。お前は、自分が命を懸けたことをたいしたことではないと思っているのか」
「ええと……」
私は少し考えてから答える。
「少なくとも、陛下がわざわざわたくしの待遇を変えるほどのことではないと思っております」
「私はそうは思わない。お前は、恐怖で動けなくなってもおかしくない状況で、それでも手を伸ばした。その行動に対して、私が何もしない方が不義理だろう」
「ですが、わたくしは……」
「お前が私を救おうとしたという事実に変わりはない」
私は返す言葉を失った。陛下は真剣な顔で語っている。私からしたら迷惑なことだけれど、胸を打たれてしまったことが悔しい。
陛下は私の前で足を止めると、私の首元に視線を落とした。
「やはり、良いな」
「……?」
「首飾りだ」
「あ……はい。陛下からのいただきものですので……」
「よく見せろ」
私は反射的に一歩下がってしまう。すると、陛下の眉がぴくりと動いた。
「私の命を無視するのか?」
「いいえ! ただ陛下のお近くに寄ることは畏れ多すぎて心臓に悪く、わたくしにはこのくらいの距離が必要なのです」
そう答えると、彼は怪しげに口角を上げる。
「ならば、慣れさせてやろう」
背筋がぞくりとした。何を言っているのだろう、この皇帝陛下は。私は身分を偽っているとはいえ、彼からしたら一人の女官に過ぎないはずなのに。どう考えても、私たちは必要以上に関わるべきではない。
「陛下、わたくしは特別侍女になったとはいえ、あくまで侍女ですので……」
「だから何だ」
「ですから、どうかわたくしにそこまでお気遣いなさらずとも……」
「気遣いではない。私がしたいと思ったことをしているだけだ」
心臓が、大きく跳ねた。言葉を失った私を見て、彼は満足そうに目を細める。
「今日もお前が私の茶を淹れろ」
「……御命令とあらば、承知いたしました」
「それから、食事の際にはお前も同じ部屋にいるように」
「え……」
「嫌なのか?」
「嫌というより……仕事が増えてしまいますので」
「給与を増やそう」
「それなら頑張ります」
そう答えた私に、陛下が初めて明確に笑った。
「現金なところも気に入った」
その笑みを見て、私はなぜか胸騒ぎを覚えた。




