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第4話 侵入者


 奥宮付きの女官になってから、三日が過ぎた。最初のうちは、どうにかしてこの役目から外してもらえないものかと毎晩のように考えていた私だったけれど、三日も経てば少しずつ仕事の流れも分かってきて、皇帝陛下の執務室へ茶を運ぶことにも、廊下で突然声をかけられることにも、ほんの少しだけれど慣れてきていた。


 もちろん、慣れたからといって怖くなくなったわけではない。むしろ余計に怖くなっている。


 朝にすれ違えば「今日は随分と早い時間から働いているな」と声をかけられ、茶を淹れれば「昨日より香りが弱いように感じるが、茶葉を変えたのか」と尋ねられ、仕事を終えて戻ろうとすれば「明日も同じ時間に来い」と、まるでそれが当然のことであるかのように言われる。


 私としては、そのたびに心の中で悲鳴を上げていた。


 お願いですから、私のことを覚えないでください。

 お願いですから、他の女官と同じように扱ってください。

 お願いですから、私をもっと目立たないところへ追いやってください。


 そんな願いを本人に言えるはずもなく、私は毎回曖昧な笑顔を浮かべて頭を下げていた。





 その日の夜のことである。朝から雨が降っていて、雨音が絶え間なく響いている。


 私は遅番の仕事を終え、自室に戻る前に厨房に寄って薬草を分けてもらった。最近、夜になると冷える。そのうえ雨の日は身体が冷えやすいから、自分用に温かい薬草茶を作ろうと思ったのだ。皇帝陛下のために選ばれた高級な茶葉とは違って、私が飲むのは質素なものである。乾燥に薬草に蜂蜜を加えたら、身体も温まる。そんな小さな楽しみくらいは、自分に許してもいいと思っていた。


 私は厨房で鍋に湯を沸かし、薬草を入れた。ふわりと独特な香りが広がる。


「……いい香り」


 誰もいない部屋で、私は笑みを浮かべた。こんなふうに誰にも気を遣わず、自分のためだけにお茶を淹れる時間が好きだ。前までは、何をするにも誰かの目があり、いつも周囲の顔色を窺っていたから……こうして一人でいられる時間が、今の私には何よりも大切に思える。


 薬草茶をカップへ注ぎ、私は厨房を出た。この廊下はいつもなら静かで綺麗な場所なのだけれど、今は少し違うように感じられる。数歩進んだところで、足を止めた。


 ——何か聞こえた。雨音に混じって、かすかな金属音が。


 何か硬いものが触れあったような音だ。息を潜めて、耳を澄ませる。人の気配を感じたような気がして、ゆっくりと振り返った。廊下の先には誰もおらず、燭台の炎だけが揺れている。


「……気のせい、よね」


 そう呟いて、私は再び歩き出した。しかし散歩ほど進んだところで、今度ははっきりと音が聞こえた。かなり近い。


 こんな時間に、この場所を訪れる女官はいない。皇帝陛下の宮に入るには、許可が必要だ。それなのに、誰かがいる。


 逃げるべきだと思った。何も気づかなかったふりをして、自室に戻ればいい。そうすれば、私は何も知らなくて済む。


 そう思ったけれど……。


「——何者だ」


 低い声が聞こえてきた。皇帝陛下の声だ。続いて、何かが激しくぶつかる音がする。


「陛下……!」


 気づけば私は走っていた。廊下を曲がると、光の中に人影が二つ見えた。一つは皇帝陛下で、もう一つは黒い衣服に身を包んだ男。


 男の右手が動く。手元で何かが光っていて……あれは、刃だ。短剣。皇帝陛下が身を引いたことで、刃は空を切る。


「どこの回し者だ?」


 陛下の問いに答えることなく、男は再び踏み込む。明らかに、彼を殺すつもりだ。


 私はその場から動けなかった。怖い。足が震えて、手からカップが滑り落ちた。かシャン、と陶器が砕け、男がこちらを振り向く。


 目が合って、ぞっとした。この男の目には、ためらいがない。


「女か」


 私は一歩後ずさった。代わりに、男は一歩近づいてくる。逃げなければと頭では分かっていても、足が動かない。男の手にある短剣……あれが、私に向けられたらどうなるのだろう。


「逃げろ!」


 皇帝陛下の声が飛んできたことで、私は弾かれたように走った。しかしすぐに男に追いつかれて、腕を掴まれる。


「離して!」

「騒ぐな」


 強く引かれ、身体がよろめく。短剣が目の前に突き出された。私は反射的に顔を背ける。


「いや……!」


 死ぬと、そう思った。こんなところで。私は、地獄から逃げてきたはずなのに。ようやく誰にも邪魔されない場所に来たと思ったのに。ここで死ぬなんて……嫌だ。絶対に嫌だ。


 私は必死に腕を振りほどこうとしたが、男の力は強い。短剣が持ち上げられたその時——。


「その女から離れろ」


 皇帝陛下が踏み込んできた。すると、男が私を盾にするように身体を引く。


「来るな! それ以上近づいたらこの女を殺す」


 刃が私の首元に触れた。冷たい感触に肌が粟立つ。それを見て、陛下は足を止めた。その顔は無表情に見えるけれど、普段の余裕が消えているように見える。


「……その女に傷をつけるな」

「であれば、剣を捨てろ」


 男が私の首に刃を押し当てる。ほんの少しでも動いたら皮膚が切れてしまうと思うと、息をすることさえ怖くなった。


 皇帝陛下と男が睨み合っている。時間が止まったようだった。雨音だけが異様なほど大きく聞こえる。


 私は何とか周囲を見た。何かないか。何でもいいから。このままでは、殺されてしまう。


 その時——視界の端に、厨房から運ばれたと思われる道具が置かれた台が見えた。その上に、フライパンがある。


 どうしてこんなところに。そんな疑問が浮かんだけれど今はどうでもいい。


 私は男の視線が陛下に向いた一瞬を見逃さなかった。私は思い切り身体を捻った。


「なにっ——」


 男の腕が僅かに緩む。私はその隙に身を抜いて、台に手を伸ばす。


「お前!」


 怖い。怖い。怖くて仕方がない。それでも……。


「これ以上、陛下に近づかないでください!」


 私はフライパンを構えた。声が震えていて、膝も震えている。今にも泣きそうだけれど、それでも私は一歩前に出た。


「ちっ。邪魔をするな!」


 男がこちらに踏み込んできた。短剣が振り上げられる。私は目を閉じて、夢中で、思い切り、フライパンを振り抜いた。


 ——ガァンっ!!


 刃とフライパンの底がぶつかりあう金属の音が廊下中に響き渡る。続けざまに、私は男の腕にフライパンを叩きつけた。


「ぐっ……!」


 短剣が床に落ちる。夢中で動いたので、自分で何をしたのか理解できなかった。ただ腕が痛い。心臓が壊れそうなほどに鳴っている。今にも倒れそうだ。


 男が血走った目で私を見て、死を覚悟したその直後。


「——動くな」


 凍り付くような声が聞こえた。アゼルハルト陛下の声だ。彼の瞳には明らかな怒りと殺気が宿っている。


「それ以上、私の女官に近づいてみろ。首を飛ばしてやる」


 次の瞬間、皇帝直属だと思われる護衛兵たちが一斉に雪崩れ込んできた。


「ご無事ですか、陛下!」

「侵入者を拘束しろ!」

「抵抗するようなら構わん。武器を奪え!」


 男は必死に抵抗したが、数人の騎士に押さえ込まれて床へ伏せられた。私はその光景を呆然と眺めることしかできない。


 やがて男が連れて行かれ、廊下に静けさが戻る。そこでようやく、私は、自分の手がひどく震えていることに気づいた。


「……あ……」


 声が出ない。フライパンを握っていた手が痛い。足にも力が入らず、その場に座り込みそうになった私の身体を、誰かが支えてくれた。


「危ないぞ」


 低い声に、顔を上げる。私を支えてくれたのは、アゼルハルト陛下だ。


「……陛下」

「怪我はないか」

「わたくしは……大丈夫です。それより、陛下こそ……」


 そこで私は、彼の顔を見て言葉を失った。いつもの冷たい目ではない。私が理解できないほど強い何かが、その瞳の奥に滲んでいる。


「お前は……」


 陛下の視線が、私の手から取り上げられたフライパンに向けられる。


「私を救うために、これを振り回したのか」

「……救うなんて、そんな大げさなものではありません」


 私は震える声で答えた。


「ただ……怖くて、必死だっただけです。あの人が陛下を傷つけるのが怖くて、何かしなければと思って……それで、目に入ったものをなんとか掴んだだけで……」


 自分でも情けなくなるほどに声が震えている。皇帝陛下は何も言わずに、ただ私を見つめ続けている。その視線があまりにもまっすぐで、居心地が悪くなって俯いた。


「……もう二度と、こんな危険なことはしたくありません」


 不敬にも聞こえるような言葉だったけれど、陛下の口元がほんの僅かに緩んだ。


「そう言いながら、私のためならまた同じことをするのではないか?」

「しません。もう絶対にしません。そもそももう二度と恐ろしい目に遭うつもりはありませんし、次がある前提でお話しされるのは困ります」


 必死に否定すると、陛下はしばらく黙って、そして優しく微笑んだ。私は思わず、その顔をまじまじと見つめてしまう。


「……お前は、やはり面白い女だな」

「面白い、ですか……?」

「ああ。私から離れたいといった顔をしているくせに、私が襲われていれば自分の命を危険に晒してまで助けに入る。そのうえ、こんな武器で戦うとは。これほど印象に残る女は、二度と忘れないだろうな」

「……忘れていただいてかまいません」


 私は心からそう言ったのだけれど、陛下はただ私と見つめるだけだった。

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