第3話 呼び出し
『奥宮付き』
その文字を見つめたまま、私はしばらくの間何も考えられずに立ち尽くしていた。
朝の光が高い窓から差し込み、磨き上げられた床に細長い光の帯を作っているというのに、私の目にはそんな美しい景色など少しも入ってこなくて、ただ目の前に置かれた勤務指示の一行だけがはっきりと見えていた。
奥宮付き。
つまり私は、昨日後宮に逃げ込んだばかりだというのに、よりにもよってこの国で最も近づいてはいけない人物のそばで働くことになったらしい。
「……どうして、こうなるの」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。私はただ、ひっそりと働きたかっただけなのだ。余計なことはせず、誰とも深く関わらないようにして目立たず、給金を貯めて十分な額ができたら後宮を出て、今度こそ誰にも見つからない場所まで逃げる。
だからこそ皇帝陛下とは絶対に関わってはいけなかったのに……。皇帝に顔を覚えられたら当然ながら目立つし、目立てば身元を調べられる可能性が高くなるし、身元を調べられたら偽名が露見してしまう。偽名が露見すれば——。
「……終わる」
それなのによりにもよって今日から皇帝陛下に最も近い場所である奥宮で仕事をすることになるなんて……。昨日の自分に教えてあげたい。
「お茶樹を運んでいると皇帝陛下に会うから、時間をずらすようにして」と。もちろん、昨日の私にそんなことを伝える方法などないのだけれど。
私は小さく息を吐いてから、勤務指示を折りたたんだ。
「……大丈夫。奥宮付きといっても、私が直接お話する必要があるとは限らないもの」
皇帝の身の回りには大勢の侍従や侍女がいるのだから。後宮に来たばかりの女を高貴なお方の傍に置くなんてことはないだろう。
そう願いながら廊下を歩いてると、一人の侍女に声をかけられた。
「リナ、皇帝陛下がお呼びです」
「……私を、ですか?」
思わず聞き返してしまった。侍女は、何でもないことのように頷く。
「はい。先ほど陛下から直接、名前を指定されました。奥宮へ来るようにとのことです」
胃の奥がきゅっと縮んだ。昨日一度会っただけなのに、どうして私を……。
「何か、私が失礼なことをしてしまったのでしょうか」
「そのような話は聞いておりません。ただ、陛下があなたをお呼びになった、それだけです」
私は強張りそうになる表情を堪えながら、何とか頷いた。
「……承知いたしました。すぐに参ります」
長く感じられる廊下を歩いて、指示された扉の前に着く。私に気が付いた侍従が扉を開けた。
「失礼いたします」
頭を下げて中に入った。そこには、アゼルハルト皇帝陛下がいる。整えられた黒に近い濃紺の髪は、窓から差し込む光を受けて僅かに青みを帯びている。鋭い瞳は相変わらず冷たく、整い過ぎた顔立ちには感情らしいものがほとんど浮かんでいない。ただ座っているだけなのに、威圧感がある。私は思わず背筋を伸ばした。
「……来たか」
「お呼びいただきましたので、参りました。何かわたくしにお手伝いできることがございましたら、どうぞお申し付けください」
できるだけ丁寧に、できるだけ平静に。そう思っていたのに、声は僅かに震えてしまった。皇帝陛下はそれを聞き逃さなかったらしい。
「先日もそうであったが、お前は私の前に立つと随分と緊張するのだな」
「……申し訳ございません。陛下の御前で平然としていられるほど、わたくしは肝が据わっておりませんので」
正直に答えると、皇帝陛下の眉がほんの少し動いた。
「私の機嫌を損ねないように取り繕う者が多いのだが、お前は違うのだな」
「それができるのでしたら、わたくしもそうしていると思います。ただ、今のわたくしは陛下のお役に立ちたいというより、失礼のないようにすることで精一杯ですので……」
しまった。皇帝陛下の役に立ちたいわけではないと聞こえる発言をしてしまった。慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません。決して陛下を軽んじているわけではなく、わたくしはその……人前に出ることに慣れていないものですから」
しばらく返事がなかった。怒らせてしまっただろうか。
恐る恐る視線を上げると、こちらをじっと見つめていた皇帝陛下と目が合ってしまった。鋭い視線だが、まるで珍しいものを見るような眼差しでもあるような気がする。
「お前は、変わった女だな」
「……そうでしょうか」
「一般的な人間は、皇帝の前ではもっと自分をよく見せようとする。気に入られようと笑い、適当に私を褒め、隙があれば自分の話を聞かせようとする。それなのにお前は、私の前に立つと最大限に遠ざかろうとしているように見える」
心臓が大きく鳴った。見抜かれている。まさか、そこまで見抜かれているだなんて。
しかし私は、何とか笑顔を作った。
「……陛下に気に入っていただけるような立派なところが、わたくしにはございませんから」
「それは謙虚か?」
「いいえ。心からそう思っております」
「ならば、なぜ後宮へ来た」
息が止まりそうになった。ここに来た理由を聞かれるのが一番困る。
私は一瞬俯いて、手を強く握り締めた。
「……働く場所が必要だったからです」
嘘ではない。だが、一番の理由ではない。皇帝陛下はしばらく私を見ていたが、それ以上は追及されなかった。
「そうか」
彼は簡潔にそう言うと、机の上に置かれていた書類へ視線を落とした。これで解放されるかと思いきや、すぐさま爆弾を落とされる。
「お前が茶を用意しろ」
「私が、ですか?」
「嫌か?」
「嫌というわけではございません。ただ、わたくしはまだ皇帝陛下のお好みを存じ上げませんので、もし差し支えなければ、他の方にお伺いしてから用意したいと思っております」
そう答えると、皇帝陛下は少しだけ目を細めた。
「私の好みを他人に聞くのか」
「その方が失敗が少ないかと存じます。陛下のお時間をわたくしの不手際で奪うわけにはまいりませんから」
「……自分で考えてみろ」
「え?」
「昨日、お前が淹れた茶は冷めていたが悪くなかった。あれと同じものを用意すればいい」
思わず瞬きをした。確かに私は茶器を置いた後、侍従に許可をもらって紅茶を淹れたのだった。
「あのお茶を、お飲みになられたのですか?」
「ああ。良い香りがしたからな」
「では……昨日と同じものをお持ちいたします」
「頼んだ」
「かしこまりました」
深く頭を下げ、部屋を出る。扉が閉まると、全身から力が抜けそうになった。
茶器を持って部屋に戻り、扉を叩く。
「入れ」
「失礼いたします」
室内には、先ほどと変わらずアゼルハルト陛下がいた。
「陛下、お茶をお持ちいたしました」
「そこに置け」
指示された卓上に茶器を置く。彼の視線を感じるが、平静を装いながらポットへ湯を注いだ。ふわりと白い湯気が立ち上り、室内の空気へ溶けていく。
次に茶葉を量る。ほんの少しでも多ければ苦みが強くなり、逆に少なくなれば香りが弱くなる。私は気を付けて茶葉の量を確かめながら、彼の好みが何なのかを考えた。ただの予想だが、恐らく彼は濃すぎる茶を好まないだろう。昨日のお茶は香りが良かったので、香りを良くするべきかもしれない。ならば、湯の温度は低め。蒸らす時間も長すぎないほうがいい。
私は湯を茶葉へ注いだ。茶葉がゆっくりと開き、濃い色が透明な湯の中へ広がって、やがて淡い琥珀色へ変わっていく。
秒数を数えながら、じっとポットを見つめていた。その間もずっと、背後から視線を感じている。
……見られている。とても見られている。
だがここで緊張して手を滑らせるほうが怖い。皇帝陛下の私室で茶器を割るなんて、私の人生が終わりかねない。そのため私は、見られていることを考えないようにした。
やがて頃合いを見て茶を注ぐ。琥珀色の液体が細い音を立てながらカップへ落ち、柔らかな香りが広がった。
「お待たせいたしました」
私はカップを両手で持ち、陛下の前に差し出す。
「熱いので、お気をつけくださいませ」
陛下はカップへ手を伸ばした。長い指が取っ手に触れ、一口。
私は息を止めながら彼を見つめる。陛下は何も言わず、ただお茶を飲んでいる。その沈黙が怖くて、私はつい尋ねてしまった。
「……お口に合いませんでしたでしょうか」
「いや、悪くない。昨日の冷めた茶よりもこちらの方が好みだ」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、陛下は微かに目を細めた。
「やはりお前は私に媚びないな」
「え?」
「お前はただ、私が飲みやすいものを考えたのだろう」
「それは……陛下のお茶なのですから、陛下が美味しいと思われるものをお出しするのが仕事ではないのでしょうか」
「そのように言う女が珍しいのだ」
陛下はそう言って、もう一度お茶を口にする。私は何となく居心地が悪くなって、視線を下げた。
「……でしたら、わたくしは仕事を終えましたので、戻ってもよろしいでしょうか」
すると陛下がこちらを見た。
「もう帰るのか」
「はい。ほかにも仕事がありますので」
「そうか」
彼の声がわずかに低くなった気がした。その理由を考えないようにして、深く頭を下げる。
「それでは、失礼いたします」
「……リナ」
呼び止められた。私は動揺しながらも振り返る。
「如何いたしましたか」
「明日も、お前が茶を淹れろ」
「……かしこまりました」
なんとかそれだけを答え、私は部屋を出た。




