第2話 皇帝陛下
後宮に入れば、少なくとも当分の間は安心して眠れると思っていた。それは家を出る直前まで何度も何度も自分に言い聞かせていたことで、実際昨夜は久しぶりに何かに追われることもなく眠れるかもしえれないとほんの少しだけ期待していたのだけれど、その期待は後宮に到着してから数時間も経たないうちに、あまりにも呆気なく打ち破られてしまった。
「……どうして、こんなことに」
与えられた部屋の寝台に腰を下ろし、私は両手で顔を覆いながら深いため息を吐いた。
部屋そのものは悪くない。むしろ今まで暮らしていた侯爵家の使用人部屋などとは比べものにならないほど綺麗で豪華に見える。これだけ整った環境ではあるものの、この近くに皇帝陛下がいるかもしれないという一点ですべてが恐ろしい場所へと変わってしまった。
私が絶対に関わってはいけない人。私の身元が知られてしまえば、すべてが終わる。父が残した借金から逃げるために言えを出たことも、婚約者との結婚を拒んで逃げたことも、偽名を使って後宮へ潜り込んだことも、知られてしまえば私はもう二度と自由にはなれず、罪に問われるだろう。
皇帝陛下が慈悲深い方であればもかしたら……という思いはあるが、宮廷で囁かれていた噂だけを聞けば、恐ろしい人物という印象のほうが強かった。冷酷で気難しく、無駄を嫌い、臣下の失敗を許さない。必要とあれば、自分の血縁者でさえ容赦なく切り捨てる。
もちろん、噂は噂だ。しかし皇帝という立場の人間が、私のような者の事情をわざわざ聴いてくれるとは思えない。
「皇帝陛下には、絶対に近づかない……」
私は自分自身に言い聞かせるように呟いた。余計なことはしない。そもそも、皇帝陛下と接触するなんてそうそうあることではない。何しろ相手は皇帝なのだ。後宮の一介の女官に注目なさることもないだろう。
——そう思っていたのに。
「リナ、これを奥宮へ届けて頂戴」
詳細な仕事を教えてくれていた年配の女官が、銀の盆を私へ差し出した。盆の上には、精巧な細工が施された茶器が一式乗っている。
「……奥宮に、ですか?」
「ええ。陛下がお使いになるものよ。控室へ置いてくればいいから、それほど難しい仕事ではないわ」
「ですが私まだこちらに来たばかりで奥宮の場所もよく分かっておりませんし、別のお仕事を——」
「廊下をまっすぐ進んで、二つ目の角を右へ曲がればいいだけよ。侍従がいれば、茶器を置く場所も教えてくれるでしょう。それに今の時間なら陛下は執務室にいらっしゃるはずだから、鉢合わせする必要もないわ」
最後の言葉を聞いて、私は少しだけ安心した。
「……分かりました。私が届けてまいります」
そう答えたことを、数分後には心の底から後悔することになる。
銀の盆を両手で支え、指定された廊下を歩く。奥宮に近づくにつれて、人の気配が減っていく。私の足音以外の音が、次第に遠くなっていった。
こつこつ、という音が妙に大きく感じられて、自然と歩く速度が速くなる。廊下の壁には、帝国の歴代皇帝を描いた肖像画が並んでいて、そのどれもが私を見下ろしているように思えた。
……早く届けて、戻ろう。
そう思った直後だった。前方から、足音が聞こえてきたのだ。ひとつではない。複数の足音が、こちらへ向かって歩いてくる。
私は反射的に廊下の端へ寄った。誰が来るのであれ、道を譲ればいいだろう。私は深く頭を下げて、目を伏せる。これでいい。誰とも顔を合わせなければいい。
足音がどんどん近づいてくる。こつこつと、その音がどんどん大きくなる。
そして——突然、目の前で止まった。
息が止まる。なぜ、ここで止まったの? 私が道を塞いでいるわけではない。ちゃんと廊下の端によって、無礼にならないように頭も下げている。それなのに、なぜ。
不安になって、ほんの少しだけ目だけを上げた。視界に入ったのは、黒い靴。更に視線を上げると、黒に近い濃紺の衣に、銀糸で施された帝国の紋章が刻まれていた。この紋章を身に着けることができるのは……。
——違う。違う、違う。まさか、そんなはずはない。それでも身体は頭より先に理解していた。目の前にいる人物が、誰であるのかを。
「顔を上げろ」
低い声が落ちてきて、心臓が大きく跳ねる。その声を、私は知っていた。公式の場で、よく通る皇帝の声を聞いたことがあるから。こんな近距離で聞いたことは当然あるはずもない。
「聞こえなかったのか。顔を上げろと言っている」
今度は先程よりも低く、明確な命令だった。逆らえるはずがなく、私はゆっくりと顔を上げる。
視線がぶつかった。赤色の瞳、冷たい光を宿した鋭い瞳。整いすぎているせいで、かえって人間離れした印象さえ感じられる美貌。
皇帝陛下だ。本物のアゼルハルト陛下が、目の前に立っている。しかもまっすぐと私を見ている。
頭の中が真っ白になった。皇帝陛下の前なのだから、挨拶をしなければ。いやでも、それは貴族の時の話だから、女官が勝手にお声をかけることは失礼にあたるのではないか……。
「お前」
陛下が口を開く。
「……はい」
ようやく声を絞り出した。自分でも分かるほどに震えている。
「見覚えがないな。ここで働き始めたばかりか」
「……本日より、こちらで働かせていただいております」
「名は」
どうして、こんなことを聞かれるのだろう。彼は、すべての女官の顔と名を覚えているということだろうか。どうしよう、紹介状に何か問題があったのだろうか。
「……リナと申します」
陛下の前で偽名を口にすることが、罪を犯しているような気持になった。陛下は何も言わず、ただ私を見ている。
どうしてそんなに私を見るのだろう。私の顔に何かついているのだろうか。髪型がおかしいか、服装に不備があるのか。それとも——元々の私を知られていて、正体に気づかれたとか?
背中に冷たい汗が流れる。逃げたい。今すぐここから走り去りたい。しかし皇帝陛下の前から逃げることなどできるはずがない。そんなことをすれば、それこそ不審者だ。
私は必死に平静を装いながら、視線を落とした。すると陛下が、私の持っている盆へと目を向ける。
「それは何だ」
「陛下がお使いになる茶器でございます。控え室でお届けするよう命じられておりますので、ただいまお運びしているところです」
「そうか。であれば、なぜ私から逃げるように動こうとした」
心臓が止まりそうになった。
「……それは」
言葉が詰まる。どう答えたらいいのだろう。正直誰が来たか確認する前に端に寄っていたので、彼だから逃げたというわけではない。かといって嘘を付けば不自然になるだろう。
私は必死に考えた末、できるだけ無難な言葉を選ぶことにした。
「皇帝陛下のお通りを邪魔してはならないと教えられておりますので、道を空けさせていただいた所存です」
陛下は黙った。彼の横に控えている侍従たちは、先ほどから何も言うことがない。静寂が重く、私はただ早く終わってほしいと願った。
やがて陛下が一歩近づいてくる。私は反射的に後ろへ下がろうとしたけれど、足を動かす寸前で必死に止めた。逃げるな。ここで逃げたら、余計に怪しまれるだろう。
陛下は私の顔から手元に視線を落とし、口を開いた。
「手が震えているぞ」
「……申し訳ございません」
「私が怖いのか」
その問いに、私は答えられなかった。怖くないはずがない。この人には、私の人生を一言で変えるだけの権力がある。私を家や婚約者のもとへ送り返すこともできる。身分を偽って後宮に入った罪を犯した者として処罰することさえできる。そんな相手を怖くないと思えるほど、私は強くない。しかし、それを口にすることもできなかった。
沈黙が答えになってしまったのか、彼はわずかに目を細めた。
「……そうか」
声は変わらず低いけれど、怒っているようには聞こえなかった。何かを考えているようだ。
「もういい。茶器を届けたら仕事に戻れ」
「ありがとうございます。失礼いたします」
私は深く頭を下げて、逃げるようにその場を離れる。角を曲がって皇帝陛下の姿が見えなくなった時、私は壁に片手をついた。
「……っ」
息が苦しい。胸が激しく上下する。手が震えていて、膝にまで力が入らなくなりそうだった。私は必死に息を整えながら、胸元を押さえる。
問題はないはず。私は彼の気に障るようなことは言っていないだろう。それなのに……あの瞳を思い出すだけで、背筋がぞくりとする。まるで私の頭の中を見透かされたような感覚に陥ってしまいそうになるのだ。
◇ ◇ ◇
廊下に残ったアゼルハルトは、彼女が消えた角をしばらく見つめていた。
「陛下?」
側近が彼に声をかけるが、彼は答えない。先ほどの女官の顔を思い出していたのだ。
彼女は自分を恐れ、怯えていた。それ自体は珍しいことではないが、何かが引っかかった。ただ皇帝を恐れている人間であれば、あれほど必死に目を逸らそうとはしないだろう。あの女は、自分に顔を見られることそのものを恐れていた。
「……リナ、か」
アゼルハルトは、先ほど聞いた名前を口にする。
「あの女官について調べ上げろ」
「何か不審な点がございましたか?」
「まだ分からないがな」
アゼルハルトはそう答えながらも、赤色の瞳にはわずかな興味が宿っていた。




