第1話 後宮へ
後宮という場所は、私のような女が逃げ込むにはあまりにも華やかすぎる場所だった。
白い石造りの巨大な門を場所の窓から見上げながら、私は膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、何度も自分を安心させるために息を吐く。
大丈夫。私は上手くやれる。
門の向こうには、春の陽射しを受けて淡く輝く宮殿の屋根が幾重にも連なっていて、その向こうには薄桃色の花を咲かせた木々が広がっている。風が吹くたびに花弁が舞い上がっているのが見えたけれど、そんな美しい光景を眺めても、今の私の胸には少しも喜びが湧いてこなかった。むしろ、胃がきりきりと痛む。
ここは帝国皇帝、アゼルハルト陛下の後宮である。皇帝陛下の妃たちが暮らす場所であり、帝国中から選ばれた美しい女性たちが集められた場所であり、そして——私が、二度と家に戻らないために選んだ場所でもある。
「……本当に、ここまで来てしまったのね」
思わず小さく呟くと、向かいに座っていた侍女が不思議そうに首を傾げた。しかし私が何かを言うより先に馬車が大きく揺れたので、侍女は窓の外に視線を戻す。
私はそっと胸元へ手を当てた。そこには、今日まで肌身離さず持っているペンダントがある。家を出る時、これだけは持っていきなさいと母から渡されたものだ。
母は最期まで、私に「逃げなさい」とは言わなかった。ただ真っ赤になった目で私の手を握り、『あなたが生きていられる場所を、自分で選びなさい』と言った。
だから私は選んだのだ。家を捨てて、婚約者から逃げて、そして、皇帝の後宮へ入ることを。
……普通なら、もっと別の場所を選ぶべきなのかもしれない。修道院や遠い地方の町、隣国なども選択肢にはあった。でも私にはそれができなかった。お金がなかったのだ。
父が残した借金は私たち一家が一生かかっても返せないほど膨れ上がっていて、その借金を肩代わりする条件として持ち込まれたのが私と侯爵家嫡男との政略結婚だった。結婚すれば借金は帳消しになり、家も守られる。母も妹も、この先も貴族として暮らしていける。私が嫁げと、父に言われた。
もちろん、それだけなら私だって我慢した。家族を守るためなら、好きでもない相手と結婚することくらい貴族令嬢として珍しいことではない。相手が私との結婚を望んでいるわけではないことは重々承知していた。彼が欲しいのは私ではなく、私の家名と、父が持つ古い領地と、そして何より、私の家族を人質に取って手に入れる、莫大な利益。
婚約が決まった日、彼は私に向かって笑いながら言った。『君に愛情を求めるつもりはないから安心してくれ』、と。その言葉を聞いて、背筋がぞっと冷たくなった。愛なんてものは最初から期待していない。しかし最初から「必要なのは君ではない」という意味のことを言われると、自分が一人の人間ではなくただの取引材料に過ぎないような気がしてしまった。
そして——彼の恐ろしさは、それだけではなかった。
彼は気に入らないことがあると、物に当たった。婚約してから数日が経った頃、私が出した紅茶がぬるいという理由で、彼はカップを壁に投げつけた。破片が私の頬をかすめ、血が流れても彼は謝らなかった。むしろ怯えて動けなくなった私を見て、満足そうに笑ったのだ。
『いい顔をしているな』
その時の彼の言葉をよく覚えている。
その後も彼は、私の返事が遅い、他の男性と話をした、勝手に家を出たなど、理不尽な理由で怒鳴りつけた。腕を強く掴まれたこともある。逃げようとした私を追い詰めて、耳元で「君の家族がどうなってもいいのか」と囁かれたこともあった。
私が抵抗すれば、父の借金をすぐに取り立てられる。母と妹を屋敷から追い出される。彼はそうやって、私が逃げられないように何度も脅してきた。婚約者というよりも、支配者といった存在だった。
しかも彼は、私が怯える姿を好んでいた。私が謝るまで何時間も立たせ、泣けば「その程度で泣くな」と笑い、反抗すれば「もっと厳しく躾けよう」と平然と言った。結婚すれば、彼の機嫌を損ねるたびに殴られるだろう。逃げようとすれば、問答無用で家族が傷つけられるだろう。そんな未来が、はっきりと見えてしまった。だから私は、母の死をきっかけに逃げることを決めたのだ。妹は、信用できる親戚の元に預けている。
昨夜、誰にも告げずに家を出た。そして今朝、私は別人の名前を名乗り、身分を隠し、後宮の下働きとして採用された。貴族令嬢だった私が何の訓練もなく働ける場所など限られているため、紹介状を用意してくれた古い知人の伝手で、後宮の雑務を担当する女官見習いという立場を得たのだ。
給料は決して高くないけれど、衣食住は保証される。そして何より——皇帝陛下の後宮にいる人間に、外部の貴族が手を出すことはできない。私を連れ戻そうとしても、まず皇帝の許可が必要になる。つまり後宮は、私にとって最も安全な場所であるのだ。
「到着致しました」
御者の声が聞こえ、私は顔を上げた。扉が開かれ、眩しい光が差し込む。私は目を細めながら馬車から降りた。
その瞬間、後宮の空気が肌に触れる。甘い花の香りに、噴水だと思われる水の音、遠くから聞こえてくる女官たちの話し声。私がこれまで暮らしていた侯爵家の庭など、比べるのも失礼なほどに美しい。
「今日からここが、あなたの職場になります」
私の事情を知っている案内役の女官が姿を見せ、淡々と説明してくれる。
「あなたは身分を伏せておりますので、ここでは決して以前の名前を口にしないようにしてください。実家について聞かれても、地方出身の平民だと答えること。余計な詮索を受けるような話も避けてください」
「分かりました」
私は頷いた。私は、「アリーナ」という本名を隠すことにしている。与えられた偽名は、「リナ」。それが今日から、私の名だ。
「それから、後宮ではできるだけ皇帝陛下の御前に出ないこと。特に陛下がお住まいの奥宮には、許可なく近づいてはいけません」
「はい、もちろんです」
もしろこちらから願い下げたい。皇帝陛下などと絶対にお会いしたくない。皇帝陛下に目を付けられてしまえば私の身元を調べられる危険性だってある。私がこの場所を逃げ場にした理由を知られてしまえば、せっかく手に入れた安全な場所を失ってしまうかもしれない。
そのため私は、心の中で固く決めたのだ。目立たないようにして、決して皇帝には近づかず、妃たちとも必要以上に関わらない。そして十分なお金が貯まったら、いつかこの帝都からさらに遠い場所に逃げる。そのためにも、今日から真面目に働こう。
「では、こちらへ」
女官の後を追って歩き出した。白い回廊を抜けて、噴水のある永遠を横切り、いくつもの宮を通り過ぎる。どこを見ても豪華で、どこを見ても自分が場違いな人間に思えてしまう。
しかしそんなことを気にしている場合ではない。私はただ、生き延びたいだけなのだから。
しばらく歩いたところで、女官が突然足を止めた。
「あなたの配属先はこちらです」
顔を上げると、そこにあったのは後宮の中心部から離れた、とても静かな建物だった。周囲には美しく整えられた庭があるものの、人の気配がほとんどない。
「……こちらですか? ずいぶん静かな場所ですね」
「だからこそ、あなたには都合がいいでしょう」
そう言って女官は少し声量を落とす。
「この辺りは、後宮でも特に人が少ない場所ですから」
それなら願ったり叶ったりだ。これなら、誰かに私の正体を知られる可能性も低い。
「ただし、この建物の向こう側には皇帝陛下の私室がございますので、その点だけはくれぐれも注意なさってください」
「…………はい?」
思わず聞き返した。女官は何でもないことのように続ける。
「陛下は普段、この辺りで政務をなさいます。滅多にお姿を見せられることはありませんが、万が一お会いした場合は道を譲って頭を下げるようにしてください。決して陛下に話しかけてはいけません」
「……皇帝陛下が……」
なんということ。私はこんな場所を望んだわけではない。もっとこう、後宮の端の端にある誰も寄り付かないような場所で、ひっそりと働けるものだと思っていた。それなのに、皇帝陛下が普段政務をする場所の近くとは?
「……あの、配属先を変更していただくことは」
「できません」
「ですが、わたくし、できれば陛下には——」
「お会いにならないよう努力してください」
「それはもちろん努力しますけれど、そうではなくて……」
「では、お仕事の説明をいたしますね」
話を切られた。私は呆然としながら、目の前の宮殿を見上げる。もしかしたら今も、この近くに皇帝陛下がいらっしゃるのだろうか。貴族令嬢であった私ですら、公式の場で遠くから一度見たことがある程度の方。ここまで来てしまった以上、あれこれと言うことはできない。
私は大きく息を吸い込み、拳を握った。大丈夫だ。皇帝陛下はお忙しいので、私のような下働きなど視界に入ることすらないだろう。
「……よし」
今日から私は、ただのリナ。目立たず、騒がず、皇帝陛下には絶対に近づかず。そうして、いつか借金も政略結婚も、すべてを遠い過去にしてしまおう。
私はもう一度だけ宮殿を見上げ、それから荷物を抱えて歩き出した。




