第9話 逃亡計画
皇帝陛下から距離を取ろうと決意したのに、失敗した。それどころか、過去のことまでべらべらと話してしまった。
翌朝、目を覚ました私は淡い朝の光をぼんやりと眺めながら、昨日の自分の醜態を思い返して枕へ顔を埋めたくなるほどの羞恥に襲われていた。
あんなことまで話す必要があったのだろうか。別に陛下に相談したかったわけではなく、同情してほしかったわけでもない。ただ、気づけば口から零れてしまっただけだ。突然自分語りを始めたように思われただろうに、陛下は私の話を最後まで聞いてくださった。そして、優しい言葉をかけてくださったのだ。
そっと胸に手を当てると、心臓が少し変な鼓動を刻んでいる。
「……駄目よ、アリアーナ」
自分に言い聞かせる。今の私は、リナという名前の侍女だ。借金から逃げ、婚約者から逃げ、貴族としての務めからも逃げてきた。そして、最終的にはこの後宮からも逃げるつもりなのだ。皇帝陛下がどれほど優しい方だとしても、ここに留まり続けるわけにはいかない。
そもそも私が後宮に入ったのは、陛下からの寵愛を得るためではない。安全な場所に来てお金を貯めたかったからだ。それなのに最近の私は、陛下の言葉一つでおかしいほどに心を揺らしている。それではいけない。
私は寝台から起き上がり、窓辺へ歩いた。朝の後宮は静かで穏やかだ。こんなにも穏やかなのに、私の胸の中は落ち着かない。窓を開けると、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でる。
「……行動するなら、今のうちよね」
皇帝陛下の側に置かれてしまった今、私は以前よりもはるかに目立っている。このままでは一層逃げにくくなるだろう。ならば、今のうちに準備を進めるべきだ。
私は机に向かい、紙を一枚取り出した。そして、計画をまとめる。
一、必要な金額を貯める。
二、後宮から出るための身分証を手に入れる。
三、帝都から離れる。
四、できれば帝国の端っこの小さな町で働く。
「……これでいいわ」
問題は、どうやってここから出るか、だ。後宮の出入りは厳しく管理されている。侍女が勝手に外へ出ることはできないし、まして皇帝陛下直属となった今では、私の行動は以前より把握されているだろう。であれば、正面から出るのは不可能。
ならばと、後宮に来たばかりのことを思い出した。後宮には、物資を搬入するための裏口がいくつかある。商人が厨房に食材を運び込んだり、業者が洗濯物を運び出したり、花や薬草を庭師が届けたり。そういった人々が出入りするための門なら、侍女の私でも紛れ込めるかもしれない。
「まずは、門の場所を確認しないと」
私は紙にそのことを書き足した。
そして、その日の仕事を終えた頃。私は遠回りをして、後宮の裏手へ向かった。そこには大きな厨房があり、その先に物資搬入口がある。人の出入りが多い場所なら、うまく紛れ込める可能性がある。
私は柱の陰から様子を窺った。荷車が何台も出入りしている。衛兵もいるけれど、正門ほど厳重ではない。これなら——。
「……いけるかもしれない」
胸が高鳴った。久しぶりに感じた高揚感。一番良い方法は陛下から許可を貰うことだけれど、それができなかったらここから逃げよう。元々私は身分を偽っているのだし、そう簡単にばれないと思う。
「リナ」
「——っ!」
聞こえてはいけない声が聞こえた。ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは皇帝陛下だ。
「……陛下」
どうしてここに、という言葉を呑み込んで、私は笑顔を作る。
「こんなところで何をしている」
「ええと……散歩をしていました。今日は天気が良いので、ぶらぶらと歩きたくなりまして」
自分でもわかる、苦しい言い訳だ。陛下はじっと私を見つめている。鋭い瞳が、私の顔から視線を逸らしてくれない。
「お前は、ここがどこなのか分かっているのか」
「もちろん存じております」
「ならばなぜ、このような場所に一人で歩いている」
「……普段歩かない場所を歩きたくなったので」
陛下は再び黙る。私は必死に平静を装った。いずれここから逃げるために調査をしていました、なんて言えるわけがない。
やがて陛下は、ゆっくりと私の隣に立った。
「お前はよく一人になろうとするな」
「仕事の合間に休んでいるだけです。怪しいことは何もしていません」
「以前より、私から距離を取ろうとしているようにも見える」
「……そんなことは」
否定しようとして、言葉が止まる。私が陛下と距離を取ろうとしていたことに、気づかれていたとは。ならば今日のことも、気づかれているのではないだろうか。急に不安になってきた。
しかし、陛下の次の言葉は意外なものだった。
「昨日、昔の話をしてくれただろう。そのせいか今日は、お前がよく考え込んでいた」
「少し、思い出すことがあっただけです」
「私が原因か?」
「違います。陛下は何も悪くありません。ただ……自分がこれからどうしたいのか、考えていただけです」
陛下は私を見つめた。
「これから、か。お前は、ここを出たいのか?」
その言葉に、心臓が止まるかと思った。
「…………」
答えられない。けれどそれが答えになってしまった。
陛下の表情がわずかに曇る。その顔を見ていると、まるで私が最悪のことをしてしまったかのような気分に陥った。
「……陛下」
「無理に答えなくともよい」
「え?」
「昨日、お前に言っただろう。嫌なことを嫌だと言っていい、と。私に対しても同じだ」
私は思わず目を瞬いた。陛下は私から視線を逸らさず、続ける。
「お前がここを出たいというのなら、その理由を聞かせてほしい。だが私に留まれと言われたからといって、お前が従う必要はない」
胸が苦しくなった。やっぱり、この方は優しすぎる。でも……私は、この優しさに身を任せてしまってはいけないのだ。ここにいれば確かに安全かもしれないけれど、それに甘えてしまえば、いつか本当に何もできなくなる気がする。
「……わたくしは、自分で自分の人生を決められるようになりたいのです」
言葉を選びながら話す。
「誰かに決められるのではなく、自分で住む場所を選んで、自分で働いて、自分で生活をして……。そんな、普通に暮らしがしてみたいのです。ですから、いつかここを出たいと思っています」
言ってしまった。陛下の反応を見たくなくて俯いていると、隣から小さく息を吐く音が聞こえてきた。
「……そうか」
変わらない低い声。しかしそこに、感情の揺らぎはない。
「だが、今すぐにではないのだろう? お前は私の保護を必要として、この場所に来た。まだ外には危険があるのではないか」
「ですが——」
「お前の自由を奪うつもりはない」
私が顔を上げると、陛下は私の目をまっすぐと見つめた。
「お前が自分の足でここを出たいと言うのなら、その時には私自身が送り出そう。だが、危険な場所へ命知らずに飛び出すことは認めない」
その言葉に、私は何も返せなかった。そして、胸の奥に奇妙な感情が生まれる。その感情を理解してしまうことは、まだ少し怖かったのだけれど。
「……ありがとうございます」
私は深々と頭を下げる。陛下は何も言わず、私の隣から移動しようとして、足を止めた。
「明日の朝、帝都の外の土地について調べた資料を用意させよう」
「……え?」
「自分で暮らしたいのだろう。ならば、どこなら安全に暮らせるのか知っておいたほうがよい」
私は呆然としてしまった。
「陛下……そこまでしてくださるのですか?」
「お前が望んだことだからな」
そう言って、陛下は歩き去っていった。私はその背中を見つめながら、気づけば首飾りに触れていた。
自分の人生を自分で選びたいという気持ちは変わらないのに、あの人の隣にいると、今まで感じたことのない安心感を覚えてしまう。
「……駄目ね」
私は深く息を吐いた。そもそも、陛下と私では身分の差がありすぎる。彼を頼りにするのは、必要最低限にしておくべきだ。




