第16話 妹
元婚約者との一件から、数日が経った。腕を強く掴まれて、壁に押し付けられて、もう一度あの人に囚われてしまうのではないかと思ったけれど、アゼルハルト陛下が私を助けてくださったから、怖くて眠れないなんてことはなかった。
あの時の陛下の姿を思い出すと、胸が熱くなる。私は陛下に守られることに慣れてしまうのではないかと心配になるほどである。
「アリアーナ」
名を呼ばれて顔を上げた。
私は今、皇帝陛下の執務室にいる。陛下の目の前には大量の書類が積まれているが、彼は仕事をしているわけではない。彼が手に持つのは、封蝋の施された一枚の手紙である。
「こちらへ来てくれ。お前に話しておきたいことがある」
そう言われて、私は陛下の机の前まで歩いた。
「わたくしに関することでしょうか」
「ああ。先日の件について、調査を進めていた。お前の元婚約者については、既に必要な処分を下している。お前に近づくことは、今後一切許されない。彼の家についても、お前に関係する問題を理由にお前に責任を負わせるようなことがないよう整理を済ませるつもりだ」
「……ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。これで話が終わりかと思ったが、陛下はまだ私に話したいことがあるようだ。
「それとは別に、もうひとつ調べていたことがある。お前の家族についてだ」
家族。その言葉を聞くと、どうしても一人の顔が浮かぶ。
「……わたくしには、妹がおります」
私よりもずっと幼く、まだ一人では何もできない年齢だった妹。我が家が借金を負った後も、私が守らなければならないと思っていた存在。信用できる人に預けたとはいえ、私が逃げた後に妹がどうなったのか。それだけはずっと気になっていた。
「お前の妹は無事だ。安全な場所にいるようだが、状況はあまり良くない。お前が後宮に着た後、借金取りらがお前の妹を利用して借金を返済させようとしていたようだ」
「そんな……」
あの時、私は自分のことを考えるので精いっぱいだった。あの家に居続けたら、私自身がどうなるか分からなかったから、逃げた。それは間違った判断ではなかったと思う。
それでも、幼い妹を残してきたという事実だけは消えることはない。更にその後、私は一人でもっと安全な地へ逃げようとも考えていた。
「わたくしは……妹を迎えに行きたいです。わたくしはこのまま侍女として働き続けて、できる限りのお金を貯めて、妹をわたくしの元へ呼ぶことができるのなら、わたくしは——」
「アリアーナ」
陛下は私の言葉を遮られた。私が顔を上げると、彼の優しい双眸と目が合う。
「お前が無理に働いて妹を養う必要はない。今までも多くのことを背負ってきたのだ。これ以上、お前ひとりで背負う必要はない」
その声は落ち着いていて、私を包み込むような力強い優しさで満ちている。
「私は、お前の妹を保護することにした」
「……え?」
「既に迎えは出している。今日中には後宮へ来ることになるだろう」
その言葉の意味がしばらくの間理解できなかった。どうして陛下が、陛下自身とは何のかかわりもない私の妹を保護しようとしてくださるのか。
その考えが顔に出てしまっていたのか、陛下はふっと柔らかく目を細める。
「何故私がお前の妹を、と思っているような顔だな。理由は簡単だ。お前が大切に思っている者だからだ」
「陛下……」
「それに、私はお前を守ると決めた。決めた以上、お前に関係する人間を無責任に放置するつもりはない。妹君には罪はない。ならば、彼女にも安全に暮らせる場所が必要だ」
目元が熱くなった私は、唇を噛んだ。泣いてはいけないと思ったけれど、どうしての涙が滲んでくる。
「……本当に、ありがとうございます。わたくし……ずっと、わたくしだけ逃げてしまったような気がして、妹を置いてきたことがずっと苦しくて……でも、わたくしにはどうすることもできなくて……」
涙が頬を伝う。陛下は何も仰らず、私が落ち着くまで待ってくださった。
やがて、大きな手がそっと私の頭に触れた。
「お前は逃げたのではない。己のために生きることを選んだんだ。そして今度は、妹君にも選択を与えたらよい。それだけのことだ」
私は顔を伏せた。陛下の手が髪を撫でてくださる感触が心地よい。陛下に撫でていただくなんて恐れ多いとは思うけれど、それ以上に温かくて嬉しかった。
しばらくして、扉が叩かれた。どうやら、妹が後宮へ着いたらしい。
陛下と共に廊下に出て、妹がいるという部屋の前までやってきた。この部屋に妹がいると思うと、頭が真っ白になりそうになる。
会いたい。ずっと、会いたかった。無事なのか知りたかった。でも同時に、怖かった。もし、妹が私を恨んでいたらどうしよう。どうして自分だけ逃げたの、と責められたら。そう思われても仕方がないことをしたのだ。
「アリアーナ。会いに行くとよい。妹君はお前に会いたがっていたようだぞ」
「……はい。ありがとうございます」
陛下は部屋の前で立ち尽くし私を責めることはない。見守っていてくださるという安心感に包まれながら、深く息を吸った。そして、扉を開ける。
「——お姉さま?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥の何かが壊れたような気がした。
私の妹が、そこにいた。最後に見た時よりも背が伸びていて、顔立ちも随分大人びているけれど、私が覚えている妹の面影が確かに残っている。私がいない間にこの子は成長していたのだ。私の知らない出来事を経験して、私の知らないところできっと何度も泣いた。
「……あ……」
声が出せない。喉が詰まって、息をすることさえ苦しくなる。そんな私に、妹が一歩こちらへ近づいた。
「お姉さま……」
その声が、あまりにも懐かしくて。幼い頃、母に叱られたあと二人で隠れていた時も、熱を出して眠れなかった夜にも、雷が怖くて私の寝台に潜り込んできた時にも、同じ声で私を呼んでいたことを思い出してしまった。
気が付けば、私は駆けだして妹を抱きしめていた。小さな身体が腕の中にすっぽりと収まる。
温かい。ちゃんと生きて、ここにいる。
「ごめんなさい……!」
最初に出てきた言葉は、謝罪だった。
「ごめんね……本当にごめんなさい……。私、あなたを置いていってしまって、一人にしてしまって……」
「お姉さま」
「私はあなたを連れて行く方法を探すべきだったのに、私にはそんな余裕がなくて……」
情けないほど涙が止まらず、妹の肩に顔を埋めた。泣いているところなんて見せたくない。私は姉なのだから。
昔から、妹の前ではできるだけ泣かないようにしてきた。母が亡くなったあとも、妹が不安そうな顔をしている時は笑ってみせた。何度も、大丈夫じゃないのに「大丈夫」と言って。いつも姉でいようと思っていたけれど、今はもう耐えられなかった。
「ごめんね……私だけ逃げて……」
妹の小さな手が、私の背中に触れた。そして、ゆっくりと抱き返される。
「……お姉さまは、何も悪くないよ」
顔を上げると、涙を流す妹と目が合った。大きな瞳からぼろぼろと涙を零しながら、それでも私を責めるような顔ではなく、むしろ安心したように笑っている。
「わたしね、お姉さまがいなくなったとき、すごく怖かったの。お姉さまがいなくて、誰に聞いても何も教えてくれなくて、もしかしたらもう二度と会えないかもしれないと思ったこともあった。でもお母さまが前に言っていたことを思い出したの」
「お母様が……?」
「うん。『苦しくなったら、自分が生きられる場所を選びなさい』って」
もちろん、覚えている。
「だからわたし、お姉さまは自分が生きられる場所を見つけたんだって思ってた」
「……そんなふうに、思っていてくれてたの?」
「うん。お姉さま、昔からわたしに言ってくれたでしょう? 苦しいときは、苦しいって言っていいんだって。嫌なことをされたら、嫌だって言っていいんだって」
言葉が出なかった。そんなことを言った覚えはある。それは妹のために言った言葉で、私には当てはまるとは思っていなかった。
「わたし、ずっとお姉さまに会いたかったの」
「……ごめんね」
「謝らないで。お姉さまが謝ると、わたしまで悲しくなっちゃう」
妹はぎゅっと私の袖を掴む。その言葉に、また涙が溢れた。
「……大きくなったね」
「お姉さまだって変わったよ。前よりも、ちゃんと笑ってる」
「そうかな」
「うん。前のお姉さまは、わたしの前では笑ってくれていたけど、心から笑っていないってことが多かったから」
妹の笑みを見ながら、私は何も言えなかった。妹は、私が思っていたよりずっと私を見ていたのだ。私が隠していたつもりのものも、ずっと見ていた。
「今のお姉さま、安心している顔をしている。ここが、お姉さまが見つけた『生きられる場所』なんだね」
私は答えられなかった。視線が自然と扉のほうへ向く。そこには、陛下がいらっしゃった。
私たちの再会を邪魔しないよう、少し離れたところに立っている。いつもなら近寄りがたいほどの威厳を纏っているのに、今は何も言わず、ただ静かにこちらを見ている。
私が視線を向けると、陛下と目が合った。その様子を見て、妹が小さな声で尋ねる。
「……あの方は、皇帝陛下? 皇帝陛下がお姉さまを助けてくれたの?」
「そうよ。私だけじゃなくて、あなたのことまで守ると言ってくださったの」
妹は驚いたように目を丸くした。
「わたしまで?」
「そう。これからは私たち一緒にいられるのよ。あなたも、自身の人生を選んでいいの」
「……お姉さま。わたし、お姉さまがここにきて良かったと思う。だって、お姉さまがここに来たから、わたしもお姉さまに会えたんだもの」
その言葉に、また泣いてしまった。もう、今日は何度泣けばいいのだろう。
私は妹をぎゅっと抱きしめ直した。昔のように、彼女の髪を撫でる。
「これから、お互いに頑張っていこう。今までできなかったことも、少しずつ取り戻していこう」
「……うん。お姉さまと一緒なら、やってみたい」
妹の笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなっていく。私はずっと怖がっていて、逃げることばかりを考えていた。でも今は違う。怯える必要はなくて、生き方も自分で決められる。
そして何より——この場所には、私を守ってくださる人がいる。
私はもう一度陛下を見た。陛下は私を見つめたまま、何も仰らずにただそこに立っていらっしゃる。その表情は柔らかくて、それを見るとまた胸が熱くなった。
私は妹の手を握りながら、陛下の方を見て頭を下げる。
「陛下」
「どうした」
「心からの感謝を伝えさせていただきます。本当に、ありがとうございます」
頭を下げながら目を瞑ると、頭に優しい感触があった。
「私はどうやら、お前の笑顔を見るのが好きなようでな。これからも、お前の笑みをすぐそばで見せてくれ」
陛下の言葉に顔を上げて、私は一番の笑みを浮かべた。
「はい、陛下!」




