最終話 誓い
柔らかな朝の光が差し込み、窓辺に置かれた花を照らしている。
私は目を覚ますと、しばらくの間天井を見上げたまま動かなかった。穏やかな朝だ。こんなに穏やかな朝を迎えるのがこんなに心地いいのだと知った。
今日も陛下に名を呼んで頂けるだろうか、と少し考え、思わず頬を押さえた。
「……私、いつからこんなことを考えるようになったのかしら」
アゼルハルト陛下。逃げるために入った後宮で、最初は最も会いたくなかったはずの方。何を考えているのか分からなくて、できるだけ近づかないようにと思っていた人。それなのに今では、自らその人の姿を探してしまう。
声を聞くと安心して、名前を呼ばれると嬉しくなる。陛下が疲れているようなら心配になり、そして私が笑っているのを見て陛下が微笑んでくださると、どうしようもなく胸が熱くなる。
私は、もうとっくに気づいていたのだ。これは、陛下に対する感謝の気持ちだけではない。安堵という思いだけではない。
私はきっと、陛下のことが好きなのだ。
そう認めてしまえば、驚くほど簡単なことのように思えてきた。胸にあった小さな違和感が、すべて一つに繋がったような気がしたのだ。
着替えを済ませると、仕事へ向かう。廊下を歩いていると、庭で妹が侍女の仕事の手伝いをしている姿が見えた。妹は私に気が付くと、にこりと明るく笑って駆け寄ってくる。
「そんなに走っては転んでしまうわよ」
そう言いながらも、私は笑っていた。妹は私のところまで来ると、息を整えながら嬉しそうに顔を上げる。
「今日はね、庭師の人が花の植え替えをするから、一緒に見てもいいって言ってくれたの。午後になったら見に行ってもいい?」
「もちろんよ。私も仕事が終わっていたら、一緒に行きましょう」
「約束だからね」
「ええ、約束」
妹の頭を撫でる。このように何気ない会話をすることが、私の望んでいたことなのだろう。
その時、廊下の奥から一人の侍女がやってきた。
「アリアーナ様、陛下がお呼びです」
「……陛下が?」
彼女は、私の正体を知っている数少ない人物である。
「お姉さま、嬉しそうね」
「そ、そんなこと……」
「顔に出ているよ。陛下に会えるのが嬉しいって」
「……もう。あなたも、そんなことを言うようになって」
私の顔を覗き込んでくる妹に対し、私は微笑んだ。恥ずかしく思いながらも、陛下の執務室へ向かう。
扉の前に立って、一度深呼吸をしてから控えめに扉を叩いた。
「入ってくれ」
聞き慣れた声が聞こえ、私は扉を開ける。
陛下は窓際に立っていらっしゃった。陽の光を背負ったその姿は、相変わらず近寄りがたいほど美しく、皇帝としての威厳に満ちている。引き締まった表情は、私を見るとわずかに緩んだ。
「来てくれたか、アリアーナ」
「陛下がお呼びであれば、どこへでも参ります」
「そうか。お前が来てくれると嬉しいよ」
そのようなことを真剣な顔で言われて、私は困ってしまった。
「……陛下は、最近そのようにわたくしが恥ずかしくなるようなことを仰るようになりましたね」
「隠す必要がなくなったからな」
陛下がこちらへ歩いてくる。
「お前が私をどう思っているのか、以前より分かるようになった」
「……わたくしは以前、そんなに分かりずらかったでしょうか?」
「ああ。しかし私には分かっていたがな」
まっすぐ目を見つめられ、頬が熱くなるのを感じて視線を逸らす。そんな私を見て、陛下は小さく笑われた。
「アリアーナ。今日はお前に、改めて伝えたいことがある」
その声があまりにも真剣だったので、私は顔を上げた。陛下は私の目を見つめていた。
「何度でも言うが、私はお前を閉じ込めたいとは考えていない。ここに残るか、外へ出るか、それを決めるのはお前自身だ。お前の妹にも、同じように己の人生を選べる未来を用意する」
「……はい」
「だが、私自身の望みを隠すつもりもない。私はお前にここにいてほしい。お前と共に朝を迎え、共に食事をし、何年先になってもお前が隣にいることを望んでいる。お前が私のそばにいることが当然だと思える日が来るのであれば、それほど嬉しいことはない」
鼓動がどきりと高鳴った。陛下の思いを受けたからこそ、私も自分の言葉で答えなければいけないと思った。
「陛下。わたくしは、ここに残りたいです」
握られた手に、そっと自分の手を重ねる。
「わたくしは、この場所で陛下に出会いました。最初は怖くて、できるだけ近づかないことを望んでいましたけれど、陛下はわたくしを一度も責めることなく、わたくしが一人で抱えようとしていたことを一つずつ取り除いでくださいました」
陛下が私に目を向ける一番の原因となった、あの時のことを思い出す。侵入者に対して、私がフライパンを持って応戦しようとしたこと。あの日からきっと、何かが大きく変わったのだろう。
「わたくしは、もう逃げたいとは思いません。ここにいたいです。陛下のそばにいたいです」
陛下はしばらく何も仰らなかった。ただ、私の手を強く握られる。
「……それは、私がどれほど喜ぶか分かって言っているのか?」
「分かりません。わたくし自身がそうしたいと思っています」
「ならば、私はお前に後悔をさせない」
陛下は私の手を持ち上げ、そして指先にそっと口づけが落とされた。胸がいっぱいになる。
私が色んなことから逃げるために入った場所。名前を偽って、身を隠すために選んだ後宮。そこはいつの間にか、私にとって一番安心できる場所になっていた。
私は、自分の意思でここにいることを選ぶ。誰かに怯えなくてもいい。自分自身を隠さなくてもいい。
「アリアーナ」
「はい、陛下」
「これからも、私のそばにいてくれ」
私は笑った。私自身が選んだ答えを、はっきりと口にする。
「はい。わたくしも、陛下のそばにいたいです」
その言葉を口にすると、陛下が珍しく、嬉しそうに笑みを浮かべた。その笑顔を見ていると、胸が温かくなる。
私はもう、過去を振り返って逃げ道を探す必要はない。これから先に待っている未来を、自分の足で歩いて行けばいい。
窓から差し込む光の中で、私はそっと陛下の手を握り返した。
◇ ◇ ◇
夜もすっかり更け、後宮は静寂に包まれている。皇帝アゼルハルトは眠っていなかった。
隣では、アリアーナが穏やかな寝息を立てている。長い髪が枕の上に広がり、普段は気高さが表に出ている顔立ちも眠っている今は無防備であり、頬にはほんのりと赤みが残っている。
その姿を、アゼルハルトはずっと眺めていた。眠れないわけではないが、眠るのが惜しかったのである。
目を閉じてしまえば、この光景を見ることができなくなる。そんなくだらない理由で、彼は目を閉じることができずにいた。
「……可愛いな」
彼の呟きは、部屋に溶けて消える。アリアーナが目覚めないことに安堵しながら、そっと彼女の頬に手を伸ばした。柔らかなその感触に、自然と口元が緩む。
「起きている時も可愛いが、眠っている時は特に無防備で困るな」
こうして何をしても気づかれないと、もっと近くで見ていたいと思ってしまうのに加え、触れていたいとも思ってしまう。
眠っている彼女に話しかけることは、最近の彼にとって密かな楽しみになっている。彼女が素面の時、彼女はすぐに恥ずかしそうな顔をしてしまう。何か甘い言葉を囁けば頬を赤くして、困ったように笑う。その反応を見るのも好きだが、こうして眠っている彼女に対すると、アゼルハルトは普段なら口にしないようなことまでつい零してしまうのだ。
「お前が私の隣で眠っているというだけで私はこれほど満たされるのだから、人間というものは単純だな」
自嘲するように笑う。
皇帝として生きてきた彼にとって、手に入らないものなどほとんどなかった。欲しいと思えば、多くのものを手に入れることができた。
だが、アリアーナは違った。彼女は最初から、彼の手中に収まろうとはしなかった。むしろ彼から逃げようとさえしていた。後宮に入ってきた理由さえ、皇帝に近づくためではなかった。ただ逃げ場所として選んだのだ。そんな彼女だが、命がけで彼を守ろうとしたこともあり、何を考えているのかよく理解できないことも多かった。
そんな彼女は、今では無防備に自分の隣で眠っている。それは彼に命令されたからではなく、彼女自身がこの場所に残ることを選んだ。
「最初は私からも逃げようとしていたというのに、今ではこうして私の隣で眠っている。運命とは、どこへ転がるのか分からないものだ」
眠る彼女の髪を梳くと、アリアーナは小さく身じろぎをした。起こしてしまったかと手を止めるが、彼女は目を覚ますことなく身体を丸める。そして彼の方へ近づき、頬が彼の肩に触れた。
「…………」
しばらく、アゼルハルトは動けなかった。それから、どうしようもなく嬉しくなった。
「お前から近づいてくるとは思わなかったぞ」
ひっそりと笑いながら、彼女の身体に腕を回す。胸元に引き寄せると、アリアーナは抵抗することなく彼の腕の中に収まった。
かつて彼女は、少しでも距離を縮めれば逃げようとしていた。とにかく目を合わせないように怪しいほどに視線を逸らしていた彼女の姿を思い出して、アゼルハルトは思わず苦笑する。
「今になって思えば、あれほど露骨に私を避ける者は珍しかったな。お前にとって私という存在は、恐ろしいものでしかなかったのだろう」
だが、その距離感は少しずつ変わっていった。彼女が彼の前でも微笑むようになり、自分からも話しかけるようになった。そして最後には、自分の意思で残ると言ってくれた。
彼は、眠るアリアーナの額にそっと口づけを落とす。
「ありがとう。私の傍に残ることを選んでくれて、本当にありがとう。これから先も、お前が私の隣にいることを毎日のように嬉しいと思うだろう」
アリアーナは眠っているため、当然返答はない。だが彼は言葉を続けた。
「私はお前のすべてを知っているわけではない。お前が抱えてきた恐怖も、私には想像することもできない。それでも、これからお前が私の隣で過ごす時間だけは、過去に奪われたものよりも遥かに多く、穏やかで幸せなものにしたいと思っている」
彼女の髪に顔を埋めると、微かに鼻のような香りがした。その匂いまで愛おしい。
こうして眠っている彼女を見ていると、明日も、その次の紐、その先もずっとこの光景を見ていたいと思ってしまう。自分でも、随分と重い男になったものだと思う。
だが、もう手放すつもりはない。アリアーナを愛しているのだ。彼女が自分の意思で彼を選んだからこそ、その想いを自分勝手なものにはしたくないと思っている。
「ずっと私の隣にいてくれ」
アゼルハルトは、眠る彼女の手を取った。アリアーナの指が眠ったままわずかに動き、彼の指を探すように絡んだ。
アゼルハルトは目を見開き、やがて嬉しそうに笑う。
「それは、肯定だと受け取ってもよいのだろうか」
絡んだ指は離れない。アゼルハルトはその手を大切に包み込み、再び彼女の髪を撫でる。
月明りの中で眠るアリアーナの顔は穏やかだった。彼を信じ切って、深い眠りに身を委ねている。
「心地よくお休み、アリアーナ」
最後にそう囁いて、アゼルハルトも目を閉じる。
明日の朝も目を覚ませば彼女が隣にいると思うだけで、これほど幸せになれるのだ。きっと自分は、もう一生彼女に適わないのだろう。




