第15話 脅威
体調が戻ってから、私は侍女としての仕事を続けることにした。
以前と何も変わらない、と言えば嘘になる。前の私は目立たないように動くことを一番に考えていて、いつかここを離れて誰も私のことを知らないような場所で暮らすことを目的としていた。それが私の望みだったから。
でも……私は、その「いつか」が来た時、どこに行けばいいのか分からなくなってしまった。
「リナさん。この荷物を倉庫まで運んでもらえるかしら」
「承知しました。すぐにお持ちします」
私の本名を知っているのは陛下だけである。本当の名前を呼んでくださることが、こんなに嬉しいものだということに驚いた。特に、陛下の落ち着いた声で名を呼ばれると、胸がきゅっと締め付けられるような感覚になる。
皇帝陛下からできるだけ離れようと望んでいたはずなのに、最近は陛下のそばにいると落ち着くようになっている。そのたびに自分で自分が分からなくなってしまうのだ。私は、このまま陛下のそばに居続けたいのだろうか。答えはなかなか出せない。
そんな日々の中のある日、私は後宮の外へ買い出しに出かけることになった。侍女長から渡された買い物袋を腕にかけ、私は久しぶりの街を歩いていた。
人々の何気ない営みを眺めながら進む。後宮に来る前の私にとって、街を歩くことさえ自由ではなかった。元婚約者の許可がなければ外出できない日もあったし、出かけたとしてもどこへ行くのか、誰と会うのか、何時に戻るのかを細かく尋ねられた。
目的はあるものの、こうして自由に外を歩けるのは嬉しい。
すべての買い物を終えて、後宮に戻ろうとしていたその時だった。
「——アリアーナ」
背後から、名前を呼ばれた。
足が止まる。聞き間違えかと思った。ゆっくりと振り返り、視界に入った顔を見て、身体中の血が凍り付いたような錯覚を覚えた。
「……どうして……」
そこにいたのは、私の元婚約者だった。
彼は、最後に見た時よりも痩せていた。頬はこけて、目の下には濃い隈があり、身に着けている服もかつてのような上質なものではない。
でも、その目は変わっていなかった。私を見るその目。
「やっと見つけた……」
彼が一歩近づいてきた。私は反射的に後ずさる。
「来ないでください」
「どうしてそんな顔をするんだ。俺はお前を捜していたんだ。お前がいなくなってから、どれだけ心配したと思っている。お前がいなくなってから何もかもが無茶苦茶になったんだ。それなのにお前だけが何不自由なく暮らしているなんて……。俺がどんな気持ちだったか、お前には分からないのだろうな」
「……それは、わたくしのせいではありません」
反論することに恐怖を感じたけれど、私ははっきりと述べた。今の私は、逃げることしかできなかった頃とは違う。陛下が、自分で自分の人生を選ぶべきだと何度も仰ってくださったから、私は自分で選びたい。
「わたくしとあなたには、既に何の関りもありません。わたくしはもう、あなたの元へは戻りません」
そう言うと、彼の顔が歪んだ。
「は? お前にそんなことを言う権利があるとでも?」
あまりにも低い声。ぞくりと背筋が震え、危機を感じてその場から離れようとした。だが、強い力で腕を掴まれる。
「——っ!」
昔と同じように、強い力。逃げようとした私の手首を、まるで逃すものかと言わんばかりに握り込む力。私は咄嗟に手を振り払おうとしたけれど、彼はさらに強く引っ張る。
「離してください!」
「もう二度と離さない。お前を逃したから、俺は全てを失ったんだ。お前がいなくなったせいで、俺の家も、立場も、未来も、全て壊された。だから今度は、俺がお前を取り戻す。お前さえ戻ってくれば、きっと全て元に戻る。俺達は婚約者だったんだから、お前が俺の隣に戻ればいいだけなんだ」
「嫌です……!」
私は必死に首を振った。
「わたくしはもうあなたのところには戻りません。婚約はもう終わったのです。わたくしは元々、あなたと結婚したくありませんでした。あなたのそばにいることがずっと怖かった。何を言えば怒られないのか、どんな顔をすれば機嫌を損ねないのか、そればかり考えて生きるのが嫌だったのです!」
言葉に出すと、心の奥に押し込めていた恐怖が一気に蘇ってきた。彼の怒鳴り声に強く掴まれた腕、謝らなければ許されず、洗脳するように何度も何度も「お前のためだ」と言われたことを。
「俺はもう変わった。もうお前に怒鳴ったりしない。お前が嫌がることだって、無理にさせたりしない。だから一緒に来てくれ。これからは、お前を大切にできる。俺にはお前しか残っていないんだ。俺はお前を愛しているんだよ」
「それは愛ではありません」
私ははっきりと口に出す。
「わたくしは自分の意思で、あなたから離れました。あなたが苦しいからといって、わたくしまで同じ場所へ戻る必要はありません」
私の言葉を聞いて、彼の表情が固まった。そして、さらに強く私の腕を引く。
「ならば、無理にでも連れて帰ろう」
「嫌!」
身体が引っ張られて裏路地に引き込まれ、背中を建物の壁に強く押し付けられた。強く押し付けられたせいで、息が詰まる。目前には彼の顔が迫った。
「アリアーナ、俺はお前を愛している。お前がどれだけ俺を拒んでも、その気持ちは消えることはない。むしろお前がいなくなってから、俺にとってお前がどれほど必要だったのかを思い知ったんだ。頼むから、俺のところへ戻ってきてくれ」
「……あなたは、わたくしを見ていない。あなたが愛しているのはわたくしではなく、あなたが優越感に浸ることのできる、あなたよりも弱い存在です」
手首を抑え付けられている手が強くなる。痛くて、怖い。それでも、私は目を逸らさなかった。
彼が何かを言おうと口を開いた、その直後。
「——その手を離せ」
突如聞こえた声と共に、周辺の空気が変わった。低くて冷たい、聞き慣れた声。
私は顔を動かして、声が聞こえた方を向いた。裏路地の入口から、黒い外套を羽織った男性が歩いてくる。近衛騎士を従えたその人の姿を見て、私は安堵から涙を流してしまいそうになった。
「……陛下」
アゼルハルト皇帝陛下。
彼は私と元婚約者を見つめたまま、ゆっくりと歩いてくる。その表情には、共にお話している時の穏やかさなど欠片もなかった。
「私の侍女に触れているその手を、今すぐ離せ」
元婚約者が息を呑んだ気配が伝わってきた。だけど、腕を掴む手は離れない。
「皇帝陛下……どうしてここに」
「私がどこにいるか、お前に関係ない。問題は、お前が私の許可なく彼女に触れていることだ。更に彼女が明確に拒絶しているにもかかわらず、その手を離そうともせず、連れ去ろうとしている。その行為がどれほど愚かなものなのか、理解できていないようだな」
元婚約者の顔から血の気が引いていく。
「俺……私は、ただ彼女を取り戻したいだけです。彼女は私の婚約者だった。私の家がこのような状況になったのも、すべて彼女が——」
「黙れ」
その一言で、彼は口を閉ざす。
陛下は私に視線を向けた。その目が私を捉えると、ほんの少し柔らかく細められる。
「その手を離せ」
ようやく、掴まれていた腕が解放された。力が抜けて崩れ落ちそうになった身体を、陛下がすぐに支えてくださる。大きな手が私の肩を包んでいて、心が温かくなった。
陛下は私を守るように陛下の背後に隠して、元婚約者を冷たく見下ろされる。
「お前と彼女の婚約関係は既に解消されている。これ以上彼女に関わるな。……アリアーナを私から奪おうとする輩を、私は決して許すつもりはない」
どき、と胸が大きく高鳴った。私は陛下の背中を見つめながら、そっと自分の胸元を押さえた。




