第14話 望み
陛下に救い出して頂いてから、数日が経った。身体の調子はほとんど元に戻っている。医師からはしばらく無理をしないようにと言われていて、陛下の進言もあり仕事は休んでいるけれど、当たり前の生活を取り戻そうとしている。
それでもあの暗い部屋で過ごした記憶は、身体が元気になってもなかなか消えてくれなかった。夜になると時々目が覚めて、黒い天井を見つめながらあの時の孤独を思い出す。そして同時に、扉が壊されて光が差し込んだ時に、陛下のお姿が見えたあの瞬間もよく思い出す。思い出すたびに苦しくなるような記憶だったけれど、最後に残っているのは彼の腕の温かさだった。
『もう大丈夫だ』
あの時の陛下の言葉をよく覚えている。何度も何度も思い出しては、心に温かな火が灯るのだ。
「……困ったわ」
小さく呟いて、そっと息を吐いた。私は今、とても困っている。自由のためにいつかは必ずここを離れようと決意していたはずなのに、そのことを考えようとすると胸がざわついて仕方がない。
原因は分かっている。陛下だ。あの方は私が陛下に対して大した忠誠心を抱いていないことを知りながらも私を受け入れ、さらに私のために手助けをすると仰ってくださった。そして私が閉じ込められた時には、自ら救い出してくださったのだ。私は、それがとても嬉しかったのだろう。
「……私は、どうしたいのかしら」
考えても、答えが出せない。そんな時、扉が軽く叩かれた。
「リナさん。皇帝陛下がお呼びです」
その言葉に私は慌てて服装を整え、部屋を出る。扉を開けるとすぐそこに陛下がいらっしゃった。彼は何も言わずに扉を支えると、当然のように部屋の中に入って来られる。
「顔色は以前より良くなったな」
「おかげさまで、もうかなり万全な状態に戻っております。お医者様にも、あと少し休めば普段通りの生活に戻っていいと言われています」
「それなら安心だな」
陛下は頷くと、洗練された所作で椅子にお座りになった。私もその隣に座る。陛下の隣に座るなどおこがましいと思っていたけれど、ほかならぬ彼の命であるし、恐ろしいことにもう慣れてしまった。
「アリアーナに話しておきたいことがある」
陛下は机の上に一枚の紙を置いた。私はそれを見て首を傾げる。
「これは……?」
「お前の家に関する報告書だ」
心臓が嫌な音を立てた。家ということはつまり、私の実家の話だろう。
「お前の家について調べさせていたのだ。伝えていなくて悪かった」
私は目を見開く。
「陛下……」
「アリアーナが後宮へ逃げてきた理由は既に理解している。だが、元婚約者だけが理由ではないのだろう? 家の財政状況、金を借りた相手と返済期限、そしてその借金がどのような経緯で発生したのかまで確認している」
書類をめくる彼の手は、いつもと変わらず落ち着いている。
「親族の一人が複数の商人から金を借りていた。その返済をお前の家に押し付けたことで、現在のように借金が膨らんでいる。お前の元婚約者との共謀していたようだ」
「……父が、すべての借金を作ったものだと思っていました」
「ああ。元は共犯だったのだろうな。だが手に負えなくなったため、お前の父にすべての責を押し付けたといったところだろう。その責を、最後にはお前が押し付けられたといったところか。そのための婚約だったのだろう?」
陛下に促され、私は書類を見つめた。書面には数字が並んでいる。
「……わたくしには手に負えなくて、逃げてしまいました」
「案ずるな。これはすべて処理した」
「え?」
「お前の父が負っていた借金の返済は完了している。足りなかった分は私費から出しておいた。お前の家が正当に負うべきではない借金については、法に基づいて無効とした」
その言葉の意味が分からなくて、頭が真っ白になった。
「ちょっと……待ってください。つまり……」
「借金はなくなった、ということだ」
「……」
あまりに唐突なことに驚き過ぎて、しばらく私は陛下を見つめることしかできなかった。
「……どうして、そこまでしてくださるのですか」
「お前がその借金の所為で逃げなければならなかったからだ。お前は自分がこの借金をすべて背負わねばならぬと思っていたのだろう。そのために後宮に勤め、金を貯めようとしていた。いつかここを離れるとは言っていたが、この量の借金を返すだけを貯められるはずもない。私はその必要をなくしただけだ」
「ですが……これはあまりにも大きな金額です。わたくしひとりのために、陛下がそこまで——」
「私費であれば、何に使おうと私の勝手だろう。それと、お前のためだからこそ、私にできることをした」
どき、と心臓が跳ねた。陛下は優しい眼差しをしながら、お話を続ける。
「私は皇帝だからな。お前を守るためにこの立場を使って何が悪い。それに、お前が借金を抱えているというだけで、愚かな男から逃げられない状態が続いていたことが許せなくてな」
私は息を呑んだ。そうだ。借金がある限り、私は自由になれなかった。どこへ行ってもその影に追われ続け、後宮に逃げて身を隠したとしてもいつか見つかってしまうかもしれないという恐怖を抱きながら生きていくのだと思っていた。
「もう一つ、話がある。その愚かな男についてだ。奴は今、お前を捜しているそうだ」
「…………」
「ただし、お前を連れ戻すことはできない。お前と奴との婚約は正式に解消されている。お前が同意していない婚姻を強制することは認められぬからな。既に手続きも済んでいる」
私が抱えていた問題の、何から何まですべてを陛下が解決してくださった、ということだろうか。それを理解した途端、胸の奥で何かが壊れたような感覚があった。
「……もう、逃げなくてもいいのですか」
「ああ。お前はもう自由だ」
私は俯いた。涙が落ちそうになった。
ずっと、怖かった。後宮に逃げてきても、あの人に見つかったらまた連れ戻されるのではないかと思っていた。またあの家に戻されて、またあの人の顔色を窺いながら生きる。逃げても逃げても、その恐怖か消えなかった。
でも……その恐怖の根を、陛下が取り除いてくださったのだ。
「……わたくしはもう、逃げ続けなくてもいいのですか」
「ああ」
堪え切れなくて、涙が頬を伝った。私は慌てて拭う。
「すみません。泣くつもりはなかったのですが……」
「泣いてもよい。今まで泣くことすら我慢してきたのだろう。私の前でまで我慢する必要はない」
その言葉に、余計に涙が出てきた。
「おやめください。このままだと、わたくしは陛下のことを好きになってしまいます」
「好きになればよい。何も問題はないのでは?」
揶揄うような声色に、私は涙を拭いながら笑った。久しぶりに、心から笑えたような気がした。そんな私を見て、陛下は満足そうに頷かれる。そのお顔は、まるでずっと欲しかったものをようやく見つけたかのようなお顔だった。
「アリアーナ。これで、お前を縛っていたものはなくなった」
「はい。本当に、ありがとうございます」
「これからはお前自身が決めればよい。ここに残るのか、それとも帝都の外へ行くのか。働くのか、何もしないのか。私の側にいるのか、離れるのか。私はお前に片方の選択を強いるわけではない。……お前はもう、自分の意思で生きていけるのだ」
その言葉が、ゆっくりと心に沈んできた。
私はしばらく何も言えなかった。誰かに決められた人生ではなく、自分で選べる人生。怖くなったら逃げても良くて、嫌だったら断っても良くて。そんな人生が、ずっと欲しかった。
「もし、帝都の外へ行きたいと思ったら……」
口にすると、陛下の眉がぴくりと動いた。
「わたくしは元々、そのつもりでした。お金を貯めたら帝都から離れた小さな町や村に行って、そこで働いて……誰にも見つからないような場所で暮らそうと思っていました」
言葉に出すと、それは以前の私が最も求めていた未来のように思えた。目を瞑ってその光景に浸っていた私は、陛下の瞳がわずかに曇ったことに気づかなかった。
「その場所で暮らすことが、お前の望みなのか」
「……分かりません」
「分からない?」
「はい。以前は、それが一番幸せなことだと思っていました。でも、今は……少し、考えが変わってしまったみたいです」
自分で言いながら頬が熱くなり、俯く。はっきりとは言えなかったけれど、陛下はすぐに私の言葉の意図を掴まれたようだ。
「……ほう?」
「陛下。如何なさいました?」
「いや。お前が楽しそうに未来を考えられるようになったことを嬉しく思っている」
思わず顔を上げると、陛下の口角はわずかに上がっていたが、その目は笑っていないように見えた。
「お前がこの場を離れることを望むのなら、私は止めない。だがお前がどこへ行くのかも、誰と暮らすのかも、どのような場所で働くかも、すべて私が確認する。お前が安全に暮らせる場所でなければ、許可するつもりはない」
「……え?」
「選択を奪うつもりはない。ただお前が再び誰かに傷つけられる可能性を、私が見逃せないだけだ」
陛下の声は穏やかだが、その言葉には有無を言わせない強さがある。
「既に私は、お前を放っておくつもりはない。護衛は付けさせるし、住む場所も用意する。生活に必要な費用もこちらで負担する。お前が私の庇護を必要としなくなるまで、いつでも連絡が取れるようにしておこう」
「それでは、ほとんと後宮にいるのと変わらないような……」
「窮屈に感じるのであれば、距離は置こう。だがお前がどこにいるのかは常に把握しておきたい」
そう言った陛下の顔は真剣そのものだった。その瞳に見据えられて、どぎまぎしてしまう。
「……どうして、ですか」
問いかけると、陛下は少しだけ目を細めた。
「お前がいなくなることを想像すると、思っていた以上に不快だからだ」
「……」
「いや、不快という言葉では足りないな。お前が私の目に届かない場所へ行き、二度と戻ってこないと考えると、私はおそらく冷静ではいられない」
鼓動が大きく跳ねた。陛下の手が、机の上で握られる。
「私は、お前に自由であってほしいと思う。その思いは決して嘘ではない。だが、……私は、お前がここに残ることを望んでいる」
はっきりと、そう聞こえた。命令ではなく、陛下自身の言葉として。
彼に見つめられていると、顔に熱が集まる。でも、目が離せない。
「……陛下」
「今すぐ答えを出す必要はない。お前にとって一番の答えを出してくれ」
そう言って、陛下は立ち上がった。部屋を出て行こうとする前、一度だけ私の方を振り返る。
「ただ、アリアーナ。私は気が長い男ではない。あまりに考えている時間が長いと、お前がここから出られなくなっている可能性があるぞ」
陛下は優しく笑い、それだけを告げて部屋を出て行った。
私はしばらくその閉じられた扉を見つめていた。




