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第13話 アリアーナ


 目を覚ました時、最初に感じたのは柔らかな感触だった。背中がふわふわとしていて、身体には毛布がかけられている。鼻をくすぐるのは、どこか落ち着く香り。天井を見上げれば、見慣れない天蓋が目に入った。


「……ここは……?」


 声を出した時、自分の喉がひどく渇いていることに気づいた。


 ぼんやりとした頭で周囲を見回す。先ほどまでいた、あの狭くて暗い場所じゃない。壁際には小さな暖炉があって、火が燃えている。窓には厚いカーテンが掛けられているものの、その隙間からは光が差し込んでいた。


「目が覚めたか」


 突然すぐ傍から低い声が聞こえ、心臓が大きく跳ねた。慌てて目を向けると、そこにいたのは皇帝陛下だった。椅子に座って、じっと私を見つめている。いつもののように威厳に溢れているものの、その表情には疲労が滲んでいるようにも見えた。


「……陛下」

「水を飲め。喉が痛んでいるだろう」


 差し出していただいた杯を受け取ろうとしたが、手が震えてうまく持てない。すると陛下は何も言わず、私の背中に腕を回して身体を起こす手助けをし、そのまま杯を支えてくださった。


「ゆっくり飲めばよい。急ぐ必要はない」

「……ありがとうございます」


 水が喉を潤していく。身体の奥に染み渡って、生き返るような心地だ。


 私は何度かゆっくりと息を吐いてから、改めて陛下を見る。あの場所から救い出してもらった時のことは、あまり覚えていない。誰かが私を抱き上げてくれたような気がするけれど……もしかしたら、それが陛下だったのだろうか。だとしたら私は、醜態を晒してしまったのかもしれない。


 どうして陛下は、私のような身分の分からない者を気にしてくださるのだろう。……私は陛下を騙している。そんな私が陛下のお側にいることは、そもそも間違いなのだ。


 陛下は黙って私を見つめていらっしゃる。彼が何を考えているのか分からない。もし彼が、私が偽りに満ちた人間であることを知った時、お怒りになられるだろうか。それを罪として問われたら、私は何と答えればいいのだろう。


 私はただ、自由に行きたかった。そのために名前を変えて、過去を隠して、母の知り合いのおじ様に無理を言ってこの場所に来た。それは私にとっては生きるために必要なことだったけれど、相手が皇帝である以上、そんな言い訳は通じないだろう。帝国で最も高い身分にいる方を欺いているのだ。たとえ私に悪意がなかったとしても、結果だけを見れば私は悪人。


 ……言わなければならない。このまま、黙っていてはいけない。


 誰かに暴かれる前に、私は、自分の罪を自分の言葉で明かしたかった。それが、せめてもの誠実さだと思った。


 それでも、怖いものは怖い。声を出そうとするが、喉が絞めつけられる。ここから追い出されてしまうかもしれないし、推薦者のことまで調べられれば私を逃がしてくれた人たちにも迷惑がかかってしまう。


 そして何より、陛下の目から、今まで向けられていた信頼が消えてしまうのが怖かった。陛下に信頼されているとそんな大それたことを考えているわけではない。ただ、陛下の前では、ありのままの私でいられるような気がしたのだ。


 けれど……だからこそ、隠し続けることもできない。


 私は大きく息を吸った。胸が痛むけれど、逃げるために作った名前を、これ以上この方の前で使い続けることはしたくなかった。


「……陛下。申し上げなければならないことがあります」

「今でなければならないのか? お前はまだ完全な状態ではないのだぞ」

「はい。今でなければ、わたくしはまた逃げてしまうと思います」


 自分で口にしてから、息が詰まってしまった。

 逃げる。私は、いつだってそうだ。自分の気持ちから逃げて、家族を捨てて逃げて、己から逃げ続けて。だけど、今だけは逃げたくない。


「わたくしは、陛下に嘘をついていました」


 言葉に出した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが崩れ落ちた。


「リナという名は、わたくしの本当の名ではありません。後宮へ入る時に使った身分も、わたくし自身のものではありませんでした。わたくしは、自分が誰なのかを隠したまま、陛下のお側で働いていたのです」


 陛下は何も言わない。その沈黙が怖かったが、ここで止まってしまえば、私はまた都合の悪いことを隠してしまう。


「陛下を騙すつもりだったわけではありません。陛下に近づきたかったわけでも、後宮の中で何かを探していたわけでもありません。ただ、わたくしは……見つかりたくなかったのです。本当の名を名乗っていると、見つかりたくない人たちに見つかってしまうかと思いました。わたくしは、怖かったのです」


 目元が熱くなる。


「それが、陛下に対する冒涜であると分かっています。わたくしは陛下の前で身分を偽っていたのですから、許されないことをしていました。陛下を欺いたという事実は消えません」


 涙が滲みそうになるのを必死に堪えて、私は深々と頭を下げた。


「処罰されるのであれば受けます。後宮を追い出されても、ここに置いていただけなくなっても、仕方がないと思っています。ですが……」


 そこで、声が詰まった。言ってはいけないと思った。許してほしいなどと、願ってはいけない。私は罪を明かすために口を開いたのだから、見返りを求めてはいけない。それでも、どうしても言葉が止まらなかった。


「ただ、陛下にだけは……わたくしが悪意を持っていたわけではないことを、知っていただきたかったのです」


 堪え切れなくて、涙が落ちた。こんなところで泣くなんて、私は卑怯者だ。


「……申し訳ありません」


 何度謝っても足りない気がした。


「本当に、申し訳ありませんでした」


 陛下はずっと黙っていた。その沈黙が、怖い。私は彼の顔を見ることができないまま、処罰を待つ罪人のような心持で身を縮める。


 やがて、彼の口から言葉が落ちた。


「アリアーナ」


 ——心臓が飛び出るかと思った。

 私の、名前。


「……っ」


 全身から血の気が引く。私は反射的に毛布を握りしめた。


「な、ぜ……」


 声が出せない。ようやく絞り出した声も、掠れていた。


「どうして、その名前を……」

「お前の本当の名だろう?」


 あまりにもあっさりと言われ、怖くなった。


「……ご存じ、だったのですか」

「お前について調べさせてもらった。お前が後宮へ入る際に用いられた推薦状を調べ、推薦者本人からも話を聞いた」


 ああ。もうすべて、気づかれていたのだ。私が罪を明かすのが遅すぎた。


「……申し訳ありません。わたくしは……」

「アリアーナ」


 何かを言おうと思ったけれど、名前を呼ばれて言葉が詰まる。彼の声には、不思議なほどに穏やかな響きがあった。


「顔を上げて、私の顔を見ろ」


 私は恐る恐る顔を上げる。陛下の顔を見ると、彼は優しい顔をしていた。


「お前は、お前が私を騙したと考えているようだが、私はそう考えていない」

「ですが……」

「確かに、身分や名を偽っていた。しかしそれは、私から何かを奪うための嘘だったのか? お前の言う通り、お前は皇帝の名を利用して財産を得ようとしたわけでも、後宮の機密を盗もうとしたわけでもない。ただ安全な地を求め、この場所に来ただけだろう」

「……」

「それを罪として裁くほど、私は冷酷ではない」


 胸の奥が、じわりと熱くなった。


「……皇帝陛下に嘘をついたことには。変わりありません」

「ならば、私にも言わせてほしい。お前が私に事実を伝えられなかったのは、私を信用していなかったからだろう」


 陛下はわずかに身を乗り出した。彼の言葉に頭が真っ白になりかけたが、なんとか返答する。


「いいえ。悪いのはわたくしです。わたくしは元々、陛下のお側に仕える予定はありませんでした。できるだけ目立たずに働いて、お金を貯めて、いつか後宮を出るつもりだったのです」

「ああ、知っている」


 もう、すべてが陛下に筒抜けなのではないだろうか。恥ずかしくなって、私は目を伏せる。すると、陛下の手が伸びてきて、私の頭に乗せられた。


「今は、お前がそこまでして逃げなければならなかった理由が知りたい。推薦者によると、お前の母が話を通していたようだな。お前の母は、お前を守ろうとしたのだろう」


 涙が溢れ出る。母の言葉を思い出した。


 ——あなたが生きていられる場所を、自分で選びなさい。


 あの言葉がなければ、私はここにいなかっただろう。


「……母は、わたくしに一度も逃げろとは言いませんでした。わたくし、ずっと、逃げることは悪いことだと思っていたのです。婚約者から逃げて、生まれの家から逃げて……。それは全部、私が弱いのが悪いのだと思っていました。最後には陛下からも、逃げようとしていたのです」


 しばらく私を見つめていた彼は、しばらく私を見つめる。そして、優しく言った。


「逃げてもいい。お前がここから離れたいのであれば、私はそれを止めない。お前が別の場所で行きたいと思うのであれば、そのために力を貸そう。だが……お前を、誰かに傷つけさせるつもりはない」


 そこで彼は言葉を区切った。まっすぐと、瞳を見つめられる。


「そして、お前が自分の名を隠さなければ生きられないような状況も、私が終わらせる」

「……陛下」

「アリアーナ」


 彼の手が、ゆっくりと私の頬に添えられる。その手は、とても温かい。


「お前が隠していた名で、これからは呼んでもいいだろうか」


 涙がぼろぼろと溢れてきた。私は顔を伏せて、何度も頷く。


「はい、もちろんです。……ありがとうございます」

「それから、もう一つ確認したいことがある」

「何でしょうか」

「お前を閉じ込めた者達についてだ」


 彼の言葉に、あの狭い部屋を思い出して身体が強張った。彼の声が、わずかに低くなる。


「現在、関係者はすべて調べている。お前が今までに受けていた嫌がらせについても、既にいくつかの証言を得ているところだ」

「……そこまでしなくても」

「いや、これは必要な措置だ。皇帝に仕えている侍女を傷つけた輩には、相応の処遇を下す。今後、お前に被害が出ないように対応を考えよう」


 私は何も言えなかった。陛下は、私を傷つけた人たちに怒っている。私のために、怒っていてくださるのだ。不敬かもしれないけれど、嬉しいと思ってしまう。


「……アリアーナ。これからは、私の前で己を偽らないでくれ。ありのままのお前を見せてほしい」


 その言葉を聞いた時、胸の奥に張り詰めていた何かが切れて、私の涙は決壊した。子どもみたいに泣きながら、何度も何度も頷いた。


 そんな私が泣き止むまで、陛下は傍にいてくださった。

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