第7話 天地神明に誓う
また、悪夢で目が覚めた。
これで何度目になるのか、鯉丸にはもうわからなかった。
重い目蓋を開き、身を起こす。
汗で湿った寝間着が、背に張りついていた。
あの惨劇の後、鯉丸は大国家の者たちとともに、城で命を落とした者を弔った。
城兵も、奉公人も、義父も、義弟も。
紅葉は夜を通して泣いていた。
鯉丸が宥めようとしたが、彼女はそれを拒絶し、卵丸が使っていた部屋に閉じこもってしまった。声をかけても返事は無く、心の整理の時間を与えるべきだという経守の言葉に従って、鯉丸は本丸屋敷の自室で睡眠を取ろうとした。
だが、横になっても眠れなかった。
隣に紅葉は居らず、朝になっても支度の音が聞こえることはない。
父の説教も、卵丸が走り回る音も、もう二度と聞けないのだ。
失った日常に思いを巡らせ、ようやくまどろめば悪夢に引き戻され、目が覚めるたびに、考えが同じところを巡った。
何ができたのか。
これから、何をすべきなのか。
過ぎたことへの答えは出なかった。
それでも、夜が明けるまでに、一つだけ決めたことがあった。
「……よし」
鯉丸は寝間着を脱ぎ、新しい衣に袖を通した。
襟を合わせ、帯を締める。寝室を出て雨戸を開くと、夜の冷たさを残した風が吹き込んできた。
空は、ようやく白み始めていた。
「誰か、おられまするか?」
「こちらに」
大国家の奉公人が進み出た。
鯉丸はその者へ向き直った。
「大国殿は、まだお休みでしょうか」
「先ほど、お目覚めになりました。お取り次ぎいたしましょうか?」
「お願いします」
奉公人は一瞬、返事をためらった。
昨夜、兵たちへ声を張り上げていた若君とは口調が違っていたからだ。
少しの逡巡の後、奉公人は深く一礼し、経守のもとへ向かった。
◇◇◇
「上京を、延期していただきたいと?」
経守の問いに、鯉丸は頷いた。
「父上と卵丸を失い、拙も為真家へ入れば、須佐本家には跡を継ぐ者がおりません。ですが、このまま城も領民も置き去りにはできません」
膝の上に手を置き、経守を見据える。
「せめて、須佐家の跡継ぎとして育てられた者の責務を果たしてから、京へ向かいたいのです」
「具体的には、どうなさるおつもりです?」
「城は破却し、領地と領民の保護を武御殿にお願いできぬかと考えております」
「武御殿には、すでにお話を?」
鯉丸は目を伏せた。
「……まだです。使いを出すことも、ままならず」
経守は言葉を切った。
この若君には今、自分の命で動かせる家臣さえ残っていない。相談の手順を問うより先に、差し出すべき助力があった。
心の中で猛省しつつ、経守は話を進める。
「承知いたしました。まずは武御殿へ意向を確かめましょう。上京の延期についても、京へ事情を伝える必要がございます」
「お願いいたします」
鯉丸は両手をつき、頭を下げた。
経守は、しばらくその姿を見つめていた。
顔を上げた鯉丸が、わずかに眉を寄せる。
「……何か、無作法がありましたでしょうか?」
「いいえ。ただ、そのように人へ頼める方ばかりなら、京での役目ももう少し楽だったろうと思いまして」
鯉丸が目を瞬かせた。
経守は小さく苦笑し、すぐに姿勢を正した。
「失礼いたしました。今のはお忘れください。それより、紅葉姫のことですが……」
鯉丸の顔が強張った。
「まだ、お返事がありません。食事は差し入れましたが、手をつけられたかどうかも」
「……そうですか」
鯉丸は膝の上へ目を落とした。
しばらく黙り込んだ後、低い声で尋ねる。
「因幡の城は、どうなっています」
「……偵察の報告では、いまだ宴が続いているとのことです」
鈍い音がした。
鯉丸の拳が、床を打っていた。
戸口に控える兵が振り向く。経守は片手で制し、鯉丸が顔を上げるのを待った。
「……失礼しました」
握った手を、鯉丸はゆっくりと開いた。
「取り乱しました」
「……ご無理もありません」
鯉丸は息を整え、経守へ向き直った。
「武御殿へのご連絡、よろしくお願いいたします」
そう言って立ち上がる。
「どちらへ?」
「紅葉のところへ。これからどうするか、話さねばなりません」
「お待ちください」
経守も腰を浮かせた。
「部屋の外には兵を置いております。ですが、姫の身に何が起きているのか、我々にはまだわかりません。お話は、戸越しになさってください」
鯉丸は眉をひそめた。
何か言いかけたが、経守の真剣な顔を見て、口を閉じる。
「……わかりました」
小さく頷き、鯉丸は部屋を出た。
◇◇◇
「紅葉、拙だ。そのままでいいから、聞いてくれ」
閉ざされた戸の前に座り、鯉丸は声をかけた。
「この城を破却することにした。皆との思い出があるこの城を焼くのは心苦しいが、因幡の者どもに利用されるぐらいなら、焼き払って使えなくした方がいいと考えてのことだ」
返事はなかった。
鯉丸は戸を見つめた。
昨夜の、弟を抱いて泣く姿が脳裏を離れない。
――アタシ、守ろうと。
何をされたのか。
何が起きたのか。
まだ、何一つ聞けていなかった。
「紅葉。返事だけでもしてくれ」
彼女の声が聞きたい。
「開けるぞ」
「え?ちょ……っ⁉」
そう思った鯉丸は、兵が止める間もなく引き戸に手をかけ、開けた。
部屋の中では、紅葉が首を吊っていた。
「……っ⁉紅葉!」
咄嗟に部屋の中に飛び込んだ鯉丸は、刀を抜いて梁から紅葉の首を括っている布を横一文字に斬った。
落ちてきた紅葉の体を抱き止めた鯉丸は、その体がまだ温かいことに安堵した。
「もみ……」
「近付かないで!」
刹那、鯉丸は凄まじい力で投げ飛ばされ、部屋の中心部から障子戸を破壊して庭まで飛ばされた。
「こ、鯉丸様⁉」
驚愕する兵たちを片手で制止し、鯉丸は紅葉を見る。
紅葉は打掛を頭から被り、丸まっていた。その有様はまるで、何かに怯える子供のようだった。
「紅葉……」
「来ないで!」
鯉丸は足を止めた。
「拙だ。鯉丸だ」
「わかってる……わかってるから、来ないで」
投げ飛ばされた衝撃で口が切れたのか、口の中で酷い鉄の味がする。
口の端から垂れる血を腕で拭い、鯉丸はなおも紅葉に呼びかける。
「どうしたんだ?話してくれ」
打掛の下から、震える声がした。
「アタシ、またおかしくなってる」
「どういうことだ?」
「……お腹が、空いてるの」
紅葉の赤く光る目が、鯉丸の口から垂れる血へ向いた。
すぐに顔を伏せ、自分の肩を強く抱く。
「食事は、食べられなかったのか」
「食べようとした。でも、受けつけないの。お腹は空いてるのに……」
傍らには、ほとんど手のついていない膳があった。
「みんなの声が近づくだけで、変になる。また、昨日みたいになったらって思って、いっそ死ななきゃと思って首を吊ったのに、苦しいだけで死ねなかったの」
そう言って、彼女はゆらりと立ち上がる。
赤い目が爛々と輝くが、すぐにその光が立ち消え、その場に蹲る。
その挙動を見て、鯉丸はようやく確信を得た。
彼女は己の意志で卵丸を手に掛けたのではない。
身の内に沸き上がった抑えきれぬ衝動によって、理性を失い襲ったのだ。
そして今、彼女は再び理性を失おうとしている。
「お願い。離れて――」
紅葉の頬を、涙が伝った。
「もう、誰も殺したくない……!」
彼女の悲痛な叫びに対し、鯉丸は思考を高速で巡らせていた。
昨夜の出来事。
卵丸の遺体の状況、鯉丸が到着した途端に正気を取り戻した紅葉。
そして、先ほどの視線。
確信はない。しかし、試す価値はある。
「こ、鯉丸様!」
「お止めくだされ!」
兵が止めるのも聞かず鯉丸は歩を進め、蹲る紅葉の目の前へと立った。
「紅葉、こっちを向いて」
「何――」
顔を上げた紅葉の頬に手を添え、鯉丸は紅葉の唇に自分の唇を重ねた。
「んむっ⁉」
そして、己の口から流れる血を紅葉の口の中に流し込んだ。
「~~~~~~っ⁉」
紅葉の声にならない悲鳴と共に、再び鯉丸が庭に投げ飛ばされる。
一方、紅葉は自分の中にあった殺人衝動とでもいうべきものが急速に収まっていくのを感じていた。
「な、なんで?」
「やはり、血か」
鯉丸が頭を振りながら立ち上がる。
全身の激痛を気合と根性で抑え込み、平気そうな顔を取り繕いながら砂埃に塗れた衣服を手で払い、鯉丸は紅葉と向き合う。
「君が光春に何をされたのかはわからないし、思い出したくもないだろうから、答えなくていい。確かなことは、光春は君を、人の血を吸って生きる鬼に作り変えてしまったということだ」
喋りながら、鯉丸は再び紅葉の許に歩み寄る。対する紅葉は多少震えながらも、鯉丸の目を見てしっかりと立ち上がった。
「血を欲する衝動を無理やり抑えても、結局決壊してしまう。だったら、拙が君に血を与え続ければいい。そうすれば、君は今まで通り、生きることができるだろう?」
「……そんなの、無理だよ」
紅葉が暗い顔で俯く。
「どうしてだ?」
「だって、貴方は将軍家の人間になる人で、アタシは血を吸うバケモノなんだよ?」
苦しげな顔で、紅葉は絞り出すように語る。
「貴方がアタシを認めても、周りの人が認めるわけないよ………」
紅葉の心配はもっともだ。
いつ人を襲うかもわからない者が、将軍家の人間の傍にいる。
もし鯉丸が家臣であったなら、主人の不興を買うことになってでも排除しようと試みるだろう。
彼女を守ると言えば、そうした者たちとも向き合わねばならない。
ならば――
「その時は拙も、全てを捨ててでも君と生きる道を探そう」
「えっ……?」
鯉丸は紅葉の前で両ひざを突くと、腰刀を鞘ごと取り出して体の正面に立てた。
そして鞘から、わずかに刀身が抜かれた。
紅葉の赤い瞳と、鯉丸の青い瞳が交わる。
「天地神明に誓おう。例えこの世の全てが敵に回ろうと、拙は君を、必ず守る」
そう言って、勢いよく刀を鞘に納めた。
澄んだ金属音が、静かになった部屋に響いた。
金打。
それは、決して破ってはならない誓いを立てる時に行う、武士の作法だった。
紅葉の目が見開かれ、唇が震えた。
「なんで……なんで、そこまで……」
「たった一人残った家族を守りたいと思うことが、そんなにおかしいかな?」
鯉丸は、少し照れたように笑った。
「生きてくれ、紅葉。皆の分まで」
紅葉の目元から、涙が零れる。
何かを言おうとして声にならず、やがて彼女は、限界を迎えたように鯉丸に縋り付き、声を上げて泣き出した。
「……これは、いったいどういう事だ?」
乱闘のような跡が残る現場にやって来た経守に、兵たちは何と説明したものかと頭を抱えた。
《注意》
他人の血液を経口摂取する行為は、感染症などの病気を引き起こす可能性がある大変危険な行為です。絶対に真似してはいけません。




