第5話 急変
懐かしい匂いがした。
甘く、かぐわしい、母の匂い。
その香りと柔らかなぬくもりに包まれて、拙は泣いていた。
「鯉丸や」
母の声が、頭上から降ってくる。
「どうして泣いていたのです?」
ああ。
これは、あの日の夢か。
「ゆめをみたのです」
「夢?」
優しく問い返されて、また涙があふれた。
もう、夢の中でしか、この声を聞くことはできない。
「まっくらなせかいに、あおいほしがひとつ、おちてきて」
「うん」
「そのほしをめざして、なかまたちとたびをする。そんなゆめです」
「まあ。楽しそうな夢ね」
母が微笑む。
その声も、拙を抱く腕も、覚えていたとおりだった。
「でも、めがさめたら、たいせつなことをわすれてしまって」
幼い拙の口から、言葉がこぼれる。
「いっしょにいたのが、だれだったのか……どうしても、おもいだせないのです」
「それが悲しくて、泣いていたのね」
拙は母にしがみついた。
あの日も、こうして泣いたのだろう。
けれど今は、母の腕がほどけてしまうのが怖かった。
目が覚めれば、また会えなくなる。
「大丈夫よ。きっとあなたは……」
拙は顔を上げた。
けれど、その先の言葉は、もう聞こえなかった。
◇◇◇
「―――ま!しっかりなさいませ!鯉丸様!」
頬を叩かれる感覚で、鯉丸の意識は覚醒した。
重い目蓋を開けると、宗玄と見知らぬ顔の男たちに囲まれていた。
「おお!お目覚めになられたぞ!」
「水だ!水を持って来い!」
安堵の声が上がった。
鯉丸は額に手を当て、ゆっくりと身を起こした。
「どこか痛みますか」
宗玄の問いに、首を横に振る。
そこで初めて、鯉丸は自分の体に目を落とした。
痛くない。
起き上がることすらできなかったはずなのに、手も足も、思うように動く。
衣には、あのときの汚れや破れが残っていた。
白い炎と、少女の笑顔が脳裏をよぎる。
鯉丸は顔を上げ、辺りを見渡した。
日はすでに山の向こうへ沈み、西の空にわずかな茜色を残すばかりだった。
境内には五十人ほどの男たちが入り、崩れた本堂の瓦礫を運び出している。少し離れた場所では火が焚かれ、夕餉の支度が進められていた。
少女の姿は、見当たらなかった。
代わりに目を引いたのは、山門の脇に掲げられた旗だった。
宝結びの家紋が、夕風にはためいている。
「どこの家の軍勢だ?」
「大国家。当主が代々、幕府の政所執事を務めている家です」
そう発言したのは、宗玄とともに鯉丸の顔を覗き込んでいた内の一人だった。
身長は五尺九寸を越えており、年齢は20代前半といったところ。目つきの悪さと神経質そうな顔つきが特徴的なその青年は、鯉丸に対して恭しく一礼した。
「申し遅れました。大国経守と申します。幕府では政所執事代として、財政と所領を巡る訴訟を扱っておりました」
「執事代……」
「政所の副長官にございます。このたび父の呼びかけに応じ、役目を辞して馳せ参じました」
「須佐……いや、拙が鯉丸です」
名乗りかけて言い直し、鯉丸は経守の顔を見た。
「して、父とは誰です?」
「私です」
宗玄の言葉に、鯉丸は目を丸くした。
「爺の息子なのか⁉」
「はい」
「では、爺も大国家の……そんな家の出だったのか?」
「そもそも父は、晴義公の御代に政所執事を務めておりました。現役の頃には、その辣腕ゆえに多くの大名家から目の敵にされ――」
「経守。余計なことは言わんでいい」
ぴしゃりと言われ、経守は口を閉じた。
宗玄は鯉丸へ向き直る。その目から、先ほどまでの安堵が消えた。
「それより、鯉丸様。お話しいただけますか?ここで、いったい何があったのです」
「ああ……にわかには信じられんだろうが」
鯉丸は、覚えていることを順に話した。
墓参りから戻ると、寺から人が消えていたこと。
巨大な化けガエルに襲われたこと。
そして、光の中から現れた天女に命を救われたこと。
話し終える頃には、宗玄は眉間を押さえ、経守は難しい顔で腕を組んでいた。
「……父上。どう思われますか」
「荒唐無稽な話ではある」
鯉丸が口を開きかけると、宗玄は片手を上げた。
「だが、見たものとは食い違わん。瓦礫を除き始めて、もう一刻近くになる。これほど堂が壊れているのに、下敷きになった者が一人も見つからん」
宗玄は、崩れた本堂へ目を向けた。
「柱の折れ方も尋常ではない。少なくとも、刀槍を持った者同士が争っただけで、こうはなるまい」
「天女が傷を治した、というお話は?」
「倒れておられた時の有様に比べて、御体に傷がないのも確かだ。それに……」
宗玄は鯉丸を見た。
「この場で、そのような作り話をなさる理由もない」
一拍置いて、重々しく頷く。
「鯉丸様の仰せは、事実なのであろう……おそらくは」
「おそらくではない!本当なのだ、爺!」
「そうは仰せになりましても……」
「急報!急報ーっ!殿は何処におられまするかーっ!」
その時、山門から一人の兵が駆け込んできた。
彼は鯉丸たちと膝を突き合わせている経守を認めるや、即座に駆け寄って片膝をついた。
「一大事です!鬼灯山城が襲撃を受けています!」
「何だと⁉」
知らせを聞き、鯉丸が勢いよく立ち上がる。
経守も顔色を変え、兵へ問いただす。
「敵は⁉」
「旗指物がなく、確とはわかりませぬ!ただ城内より『因幡が攻めてきた』との声を聞きました!すでに敵兵が中へ入り込んでいる模様です!」
鯉丸の脳裏に、あの薄笑いが浮かんだ。
腹の底が煮えるような感覚を覚えながら、鯉丸は声を張り上げた。
「直ちに救援に向かう!支度せよ!」
しかし、誰も動かなかった。
当然だ。彼等は大国家の兵であり、鯉丸の命に従う義理はないのだから。
「鯉丸様」
背後から、宗玄の声がした。
「諦めなされ」
「……は?」
あまりにも冷酷な言葉に、鯉丸は雷に打たれたような衝撃を受けた。
宗玄は唇を固く結び、自分を振り返った鯉丸の目を正面から受け止めた。
「鬼灯山城に常時詰めているのは、わずか三十。対する因幡が動員できる兵の数は百。今の話を聞くに、因幡の兵はすでに城内に乱入している様子。今から行ったとて、間に合いませぬ」
「まだわからんだろう!」
「貴方様まで失うわけにはまいりませぬ!」
その言葉に、鯉丸は息を詰めた。
自分を守るために、城を捨てる。
義父も、紅葉も、卵丸も、そこにいるというのに。
宗玄の言うことは、わかる。
城の兵は少なく、十分な備えもない。今から駆けつけたところで、間に合わないかもしれない。
「それでも!見捨てられるものか!」
鯉丸は身を翻した。
近くにまとめて置かれていた武具へ駆け寄り、刀をつかむ。腰に差し、弓と矢筒を取った。
「鯉丸様⁉」
呼び声には答えず、山門へ走る。
つながれていた馬の手綱を解き、鞍へ身を引き上げた。
「お止めしろ!」
経守の声が飛んだ。
兵が駆け寄るより早く、鯉丸は馬を走らせた。
背後で、なおも自分を呼ぶ声がする。
間に合うかどうかなど、わからない。
ただ、ここで待っていることだけは、できなかった。
鯉丸は鬼灯山城へ続く道を駆け下った。




