第4話 運命の日
「……ん?」
墓所から境内へ戻ったところで、鯉丸は足を止めた。
人の気配がない。
先ほどまでは、境内を掃く者や、庭木の手入れをする者がいた。それが今は、誰の姿も見えなかった。待たせていた供の者たちさえいない。
鯉丸は腰の刀に手を添えた。
しばらく耳を澄ませたが、話し声も足音も聞こえてこない。
墓所に近い庫裡へ向かい、台所を覗く。
まな板の上には、切りかけの野菜が残されていた。その足元に、包丁が一本落ちている。
棚の器も、置かれた桶も、乱れた様子はない。
つい先ほどまで、ここで誰かが料理をしていた。
その者だけが、ふっと消えてしまったかのようだった。
鯉丸は台所を離れた。
額を伝う汗を拭い、足音を抑えて奥へ進む。
庫裡の居室を覗き、玉砂利の庭を横切り、本堂へ回る。
どこにも人はいなかった。薄暗い堂内では、仏像だけが変わらぬ姿で座していた。
山門まで出てみたが、供の者たちは見当たらない。
つないでおいたはずの馬まで、姿を消していた。
おかしい。
誰かに襲われたのなら、物音のひとつも聞こえたはずだ。だが、墓前にいた間も、辺りは静まり返っていた。
見て回った場所にも、争った跡はなかった。
それなのに、人も馬もいない。
鯉丸は刀の柄を握り直した。
境内を振り返った、そのときだった。
庭の玉砂利の上に、何かが落ちていた。
立ち止まり、周囲へ目を走らせる。
物陰に動くものがないのを確かめてから、鯉丸はゆっくりと近づいた。
「……何だ、これは」
数珠だった。
玉を連ねたその輪に、透明な液がまとわりついていた。糊のように粘り気のあるそれは、数珠の下の玉砂利にまで絡んでいる。
鯉丸は、数珠へ手を伸ばしかけた。
その瞬間、頭上に気配を感じた。
考えるより早く、横へ跳ぶ。
赤い何かが、目の前を貫いた。
玉砂利が弾ける。細長いそれは、数珠を先端に絡め取ると、屋根の上へ引き戻された。鯉丸は身を起こし、その先を見上げた。
屋根の上に、カエルがいた。
人よりも二回りは大きい。膨れた体を無数の瘤が覆い、顔の片側は、その瘤に埋もれていた。残る片目が、鯉丸を見下ろしている。
数珠が、口の中へ消えた。
鯉丸の背を冷たいものが走った。
先ほどの透明な液。誰もいない寺。その意味を考えかけたところで、化けガエルの口元が吊り上がった。
笑ったのだ。
「……っ!」
咄嗟に、鯉丸は刀を抜いた。
同時に、化けガエルが屋根を蹴る。
巨体が庭へ落ち、足元の砂利が跳ねた。着地とほとんど同時に、赤い舌が飛んでくる。鯉丸は身を沈め、すれ違いざまに刀を振るった。
だが、斬った手応えはなかった。
粘液が刀身にまとわりつき、腕が強く引かれる。
「しまった!」
柄を放した直後、刀は化けガエルの口へ吸い込まれた。
硬い音が響き、折れた刃が庭へ落ちる。
鯉丸はすでに走り出していた。
本堂へ飛び込み、柱の陰へ身を滑り込ませる。追ってきた舌が柱を打ち、木片が散った。
刀は失った。
だが、まだ武器はある。
土蔵の弓だ。
幾度も通った寺だった。どこを抜ければ土蔵へ出られるかは、わかっている。
鯉丸は堂内を駆け抜け、裏手へ飛び出した。
背後で、建物が軋んだ。
振り返ると、化けガエルが巨体を押し込み、柱を倒しながら迫っていた。傾いた梁が落ち、辺りに土煙が広がる。
今だ。
鯉丸は姿勢を低くし、土蔵へ走った。
戸口の近く、薪割り台に残された斧をつかむ。錠へ振り下ろすと、二度目で留め金が外れた。
戸を押し開け、薄暗い中へ飛び込む。
「あった……!」
壁際の弓を取り、矢筒を肩へ掛ける。
弦を確かめたところで、入り口の光が陰った。
化けガエルが、戸口を塞いでいた。
鯉丸は横へ転がった。
舌が背後の俵を打つ。その戻り際に膝を立て、矢をつがえる。
狙うのは、こちらを追う目。
弦が鳴った。
化けガエルが鋭い声を上げ、戸口から退いた。
その脇をすり抜け、鯉丸は庭へ出る。
振り向いた化けガエルが、顔を傾けた。瘤に隠れていた、もう一方の目がのぞく。
鯉丸は息を止めた。
二の矢を放つ。
再び、矢は狙いを捉えた。
化けガエルが顔を振り、手当たり次第に舌を振るう。
これなら、逃げられる。
鯉丸が山門へ向き直ろうとしたとき、背後で小さな音がした。
矢が一本、玉砂利の上へ落ちた。
続いて、もう一本。
「なっ……⁉」
化けガエルの目が、何事もなかったように開いていた。
確かに当てた。それなのに、同じ目が再び自分を見ている。
不死身。
その言葉が脳裏をよぎった、一瞬の隙だった。
赤い舌が鯉丸の胴へ巻きついた。
足が地面を離れる。
「しまっ――」
背中に衝撃が走った。
息が詰まり、握っていた弓が手を離れる。
地面へ落ちた鯉丸は、起き上がろうと腕をついた。だが、その腕に力が入らない。
影が覆いかぶさった。
大きな前足が背を押さえ、鯉丸を地面に縫い止める。
化けガエルは、すぐには襲ってこなかった。逃れようともがくたびに、口元を歪める。
遊んでいる。そのことが、鯉丸にもわかった。
嬲り者になるくらいならと覚悟を決めた時、鯉丸は見た。
寺の入り口、山門のすぐ近くに、光があった。
光は徐々に大きくなっていき、人の形を象っていく。
『ヴァ!?』
化けガエルもその光に気付いたようで、鯉丸を放り出して光に正対する。
光がほどけた。
そこに、ひとりの少女が立っていた。
年の頃は、鯉丸とそう変わらない。
後ろでひとつに結んだ金色の髪。白い詰襟の上衣に、金糸で縁取られた膝下までの長さの腰布。足元の長靴も、外套も白かった。円筒型のツバ付き帽子には、輝く星の意匠がある。
それは、この世界では見たこともない装いだった。
キョトンとした少女の黄金色の目が、崩れた本堂から化けガエルへ、そして地面に伏す鯉丸へと動いた。
「………huh?」
『ヴァアアアア!!』
絶叫するや否や、化けガエルは舌を伸ばし、少女を捕らえた。
少女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。
「………Deus vult!」
少女がそう叫ぶと、その姿は真っ白な炎に包まれた。
「ヴァアアアア!!」
炎に舌を焼かれた化けガエルが絶叫して飛び退る。その一瞬のうちに炎が掻き消え、少女の姿が露わになる。
白い衣は、全身を守る甲冑へ。
外套はほどけ、銀色の翼となって背に広がった。幾重もの金属の羽が、澄んだ音を立てて開く。星を戴く帽子は兜へ変わり、その上に銀の輪が浮かんだ。
鯉丸は瞬きも忘れた。
目の前に立っているものが何なのか、わからない。
それでも、その美しい輝きから、鯉丸は目を離せなかった。
『ガアアアア!!』
化けガエルが前足を振り上げる。
叩きつけられる寸前、白い炎が少女の前に広がった。
前足は、その炎に阻まれた。
少女は退かなかった。
右の籠手から、銀色の雫が流れ出す。それは地面へ落ちず、差し出された手の中へ集まっていった。
「Memento Spatha」
刹那、流れ出ていた液体は長剣となり、少女の手に収まった。
「Vale,Dominus Vobiscum」
少女の剣が、横に薙ぎ払われた。
その瞬間、化けガエルの体は上下真っ二つとなり、切断面から白い炎が吹き上がった。
『ギャアアアアアアア!!』
炎は瞬く間に化けガエルを包み、その体を焼き尽くした。
灰燼と化した化けガエルを見送った彼女は、地面にうつ伏せとなっている鯉丸へと歩み寄った。
「………Aliquid quod te rogare velim,sed nunc nonest tempus, nonne?」
「………ひゅ………ひゅ………」
虫の息となっている鯉丸の首に、少女が手を置く。
その手から、温かい炎が鯉丸に流れ込む。折れた骨や内臓が蠢き、それらがくっつく激痛が鯉丸の意識を遠のかせる。
「Noli timere. Salvus eris. Nunc igitur placide quiesce」
意識を手放す前に鯉丸が見たものは、日の光を受けながら穏やかに微笑む少女の顔だった。




