第3話 墓参り
水底から引き上げられるように、鯉丸の意識が浮かび上がった。
重い目蓋を開くと、見慣れた天井があった。左へ目を向ければ紅葉の寝ていた布団は、掛け布団がめくられたままになっている。もう起きて朝餉の支度をしているらしい。
鯉丸は身を起こし、凝り固まった体を伸ばした。障子を引き、雨戸を開ける。
朝の冷気が、頬に触れた。
東の空は白み始めていたが、西にはまだ夜の色が残っていた。
その淡い境目をぼんやりと眺めながら、鯉丸は昨夜のやり取りを思い返していた。
『なぜ、今になって明かすのです』
畳に手をついた義父へ、ようやく絞り出した問いだった。
『貴方様をお迎えする用意が、ようやく整ったためにございます』
貞春は顔を上げ、静かに答えた。
『晴義公が亡くなられてより十五年、京では後継を巡る争いが絶えませなんだ。その争いを収められたのが、かつて将軍を務めておられた為真長義様――貴方様の祖父君です』
『祖父……』
『左様。長義様が将軍位に復帰されたことで、ようやく争いは収まりました。そしてこのたび、貴方様を為真家へ迎える支度を整えてくださったのです』
鯉丸は膝の上で拳を握った。
『では、拙が為真家に入れば、須佐家はどうなるのだ』
『卵丸が継ぎまする』
迷いのない返事だった。
『貴方様を当家の跡継ぎとしてお育てしたのは、御身分を隠したまま、相応の学問や武芸をお授けするため。他家から迎えた子にそれほどの教育を施せば、怪しむ者もおりましょう。当家を継ぐ者であれば、道理が立ちまする』
自分が継ぐはずだった家。
その行く末まで、すでに決まっていた。
『……紅葉との婚姻は、どうなる』
『その約束を違えるつもりはございませぬ』
貞春はそこで一度、言葉を切った。
『ただし、将軍家へ入られるとなれば、正室には家格の釣り合う御方を迎えることになりましょう。紅葉は、側室の一人という立場に収まるかと』
鯉丸は雨戸の縁に手を置いたまま、隣の布団を振り返った。
紅葉は、知っているのだろうか?
自分たちの約束が、昨夜のうちに姿を変えたことを。
廊下の向こうから、朝支度の物音が聞こえてくる。
いつもは安心感を覚えるその音が、今は心をざわめかしている。
「……同じ景色が、こうも変わるか」
鯉丸に紅葉を裏切るつもりはない。
それでも、彼は罪悪感を感じずにはいられなかった。
◇◇◇
朝餉の後、鯉丸と紅葉は貞春の書斎へ呼ばれた。
そこで鯉丸の出自を聞かされた紅葉は、しばらく口を半ば開けたまま、父の顔を見つめていた。やがて話の意味が染み込んできたのか、みるみる顔から血の気が引いていく。
「え……じゃあ、その、アタシ、未来の将軍様に、ずっとあんな口をきいてたってこと?」
「先に言っておくが、気にせんでいいぞ。拙も昨夜まで、まるで知らんかったのだからな」
鯉丸が口を挟んでも、紅葉は落ち着かなかった。父と鯉丸を交互に見ては、何か言いかけて口を閉じる。
貞春はひとつ息をついた。
「紅葉。鯉丸様はこれより京へ上り、朝廷や幕府に巣くう魑魅魍魎どもと渡り合われるのだ。その最初の妻となるお前が、それしきのことで取り乱してどうする」
「つ、妻……」
紅葉はその言葉を繰り返し、おずおずと顔を上げた。
「じゃあ、アタシとの婚約は、そのままなんだね」
貞春が頷くと、ようやく紅葉の肩の力が抜けた。
胸元に手を添えて息をつき、それから隣の鯉丸へ目を向ける。
「……大丈夫?」
その一言に、鯉丸は返事を詰まらせた。
昨夜まで父と呼んでいた人が、自分に頭を下げた。継ぐはずだった家も、思い描いていた行く末も、一夜で変わってしまった。
大丈夫かと問われれば、そうではなかった。
だが、それを口にするのはためらわれた。
「大丈夫だ。爺が言うには、拙に仕込んだのは京の作法だそうだ。教わったとおりにしておれば、恥をかくことはあるまい」
「そうじゃなくて」
紅葉は笑わなかった。
「何を聞いてるか、わかるでしょ?」
鯉丸は目をそらした。
膝の上で握っていた手をほどき、そのまま立ち上がる。
「琳照寺へ行ってまいります」
「琳照寺へ?宗玄和尚は、鯉丸様の渡海の支度で留守にしておりますが」
貞春の問いに、鯉丸は少し間を置いた。
「……母上に、別れの挨拶をせねば。海を渡れば、気軽には参れなくなりますから」
一礼して、書斎を後にする。
部屋を出るまで、鯉丸は紅葉の方を見ることはできなかった。
◇◇◇
「おお、須佐の若様ではありませんか!」
琳照寺への道すがら、鯉丸は顔見知りの百姓に声をかけられた。
身構えた供の者を片手で制し、馬を止める。
「久しいな。釣りの帰りか?」
「ええ。田の手入れが思ったより早く済んだもんで、孫たちの腹の足しになるものでも釣れればと」
「釣果はどうだ」
「アユが三匹。上々ですな」
「ほう。それはよかった」
鯉丸が笑うと、百姓も日に焼けた顔をほころばせた。
だが、すぐには立ち去らず、何か言いたげに手元の魚籠へ目を落とす。
「あの……若様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「水路を延ばすお話は、どうなりましたかね。そろそろ取りかかれるものかと、皆で話しておりまして」
鯉丸は言葉に詰まった。
須佐本家の領内には、水を引けず耕すことのできない土地が点在していた。そこへ水路を通し、新たな田を開く。そんな計画が持ち上がってはいたものの、費用の工面がつかず、手をつけられずにいた。
「……すまん。まだ、銭の都合がつかんのだ」
「ああ、そうでしたか」
百姓の笑みが薄れた。
それも一瞬で、すぐに取り繕うように頭を下げる。
「いや、お引き止めして申し訳ありません。どうぞ、お気をつけて」
鯉丸が何か言うより早く、百姓は道を譲った。
魚籠を提げてトボトボと遠ざかる背を、鯉丸は馬上から見送った。
いつまで待てばよいのか。
そう聞かれなかったことが、かえって胸に残った。
須佐家に余裕などない。それは鯉丸にもわかっていた。
奉公人は必要なだけ残すのが精いっぱいで、城に詰める兵はわずか三十。台所を切り盛りする者も三人しかおらず、紅葉まで袖をまくって働いている。
それでも近隣の領主に攻め込まれずにいるのは、百の兵を動かせる因幡家と、水軍を擁する武御家が控えているからだ。
どちらか一方でも離反すれば、本家だけでは支えきれない。
京へ上り、将軍家とのつながりを確かなものにする。それが須佐家のためになるという理屈は、わかる。
だが、旅支度にも、供を連れて海を渡るにも、銭は要る。
その銭は、須佐家が負担することになる。
「……本当に、これでいいのか?」
その銭を、水路に回すことはできぬのか。
将来のためだと言って、今、目の前で困っている者を待たせてよいのか。
その答えを、鯉丸は未だ出せずにいた。
◇◇◇
琳照寺。
宗玄が住職を務めるこの寺の裏手に、鯉丸の母は眠っていた。
貴人の墓にしては小さな、飾り気のない五輪塔だった。
供の者を寺に待たせ、鯉丸はひとり墓前に膝をついた。花を供え、静かに手を合わせる。
「……母上。貴女のことを、聞きました」
鳥の声も、木々の葉擦れも聞こえなかった。
静まり返った墓所に、鯉丸の声だけが落ちた。
「父上を亡くされた悲しみも癒えぬうちに、縁もゆかりもない土地へ逃れ、病を抱えながら拙を育ててくださった。どれほど心細く、苦しい日々であったことか……」
言葉を切り、墓石を見つめる。
尋ねたいことは、いくつもあった。けれど、その答えを母の声で聞くことは、もう叶わない。
母が生きていたなら、将軍家へ戻ることを喜んだだろうか。
それとも、この地にとどまれと言っただろうか。
鯉丸は小さく頭を振った。
答えのない問いを重ねても、支度が止まるわけではない。
すでに、事は動いている。
元服すら済ませていない自分に、今さら何を変えられるというのか。
流されていくしかないのだ。
これまでと、同じように。
しばらくして、鯉丸は顔を上げた。
「これより、拙は京へ向かいます。祖父にして現将軍であらせられる、為真長義様のもとで、元服することとなりました」
口にしてみても、どこか他人の身の上を語っているようだった。
鯉丸はひとつ息をつき、言葉を継いだ。
「どうか、彼岸よりお見守りください」
深く頭を下げ、立ち上がる。
背を向けかけて、もう一度だけ五輪塔を見た。まだ何か告げたい気がしたが、言葉にはならなかった。
供の者たちが待つ寺へと歩き出す。
その足取りは、重かった。




