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龍王奇譚  作者: Rikyo
第1章   鯉丸登龍門編
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第3話    墓参り

 水底から引き上げられるように、鯉丸の意識が浮かび上がった。


 重い目蓋を開くと、見慣れた天井があった。左へ目を向ければ紅葉の寝ていた布団は、掛け布団がめくられたままになっている。もう起きて朝餉の支度をしているらしい。


 鯉丸は身を起こし、凝り固まった体を伸ばした。障子を引き、雨戸を開ける。

 朝の冷気が、頬に触れた。


 東の空は白み始めていたが、西にはまだ夜の色が残っていた。

 その淡い境目をぼんやりと眺めながら、鯉丸は昨夜のやり取りを思い返していた。



『なぜ、今になって明かすのです』



 畳に手をついた義父へ、ようやく絞り出した問いだった。



『貴方様をお迎えする用意が、ようやく整ったためにございます』



 貞春は顔を上げ、静かに答えた。



『晴義公が亡くなられてより十五年、京では後継を巡る争いが絶えませなんだ。その争いを収められたのが、かつて将軍を務めておられた為真長義(ながよし)様――貴方様の祖父君です』


『祖父……』


『左様。長義様が将軍位に復帰されたことで、ようやく争いは収まりました。そしてこのたび、貴方様を為真家へ迎える支度を整えてくださったのです』



 鯉丸は膝の上で拳を握った。



『では、拙が為真家に入れば、須佐家はどうなるのだ』


『卵丸が継ぎまする』



 迷いのない返事だった。



『貴方様を当家の跡継ぎとしてお育てしたのは、御身分を隠したまま、相応の学問や武芸をお授けするため。他家から迎えた子にそれほどの教育を施せば、怪しむ者もおりましょう。当家を継ぐ者であれば、道理が立ちまする』



 自分が継ぐはずだった家。

 その行く末まで、すでに決まっていた。



『……紅葉との婚姻は、どうなる』


『その約束を違えるつもりはございませぬ』



 貞春はそこで一度、言葉を切った。



『ただし、将軍家へ入られるとなれば、正室には家格の釣り合う御方を迎えることになりましょう。紅葉は、側室の一人という立場に収まるかと』



 鯉丸は雨戸の縁に手を置いたまま、隣の布団を振り返った。


 紅葉は、知っているのだろうか?

 自分たちの約束が、昨夜のうちに姿を変えたことを。


 廊下の向こうから、朝支度の物音が聞こえてくる。

 いつもは安心感を覚えるその音が、今は心をざわめかしている。



「……同じ景色が、こうも変わるか」



 鯉丸に紅葉を裏切るつもりはない。

 それでも、彼は罪悪感を感じずにはいられなかった。






     ◇◇◇






 朝餉の後、鯉丸と紅葉は貞春の書斎へ呼ばれた。


 そこで鯉丸の出自を聞かされた紅葉は、しばらく口を半ば開けたまま、父の顔を見つめていた。やがて話の意味が染み込んできたのか、みるみる顔から血の気が引いていく。



「え……じゃあ、その、アタシ、未来の将軍様に、ずっとあんな口をきいてたってこと?」


「先に言っておくが、気にせんでいいぞ。拙も昨夜まで、まるで知らんかったのだからな」



 鯉丸が口を挟んでも、紅葉は落ち着かなかった。父と鯉丸を交互に見ては、何か言いかけて口を閉じる。

 貞春はひとつ息をついた。



「紅葉。鯉丸様はこれより京へ上り、朝廷や幕府に巣くう魑魅魍魎どもと渡り合われるのだ。その最初の妻となるお前が、それしきのことで取り乱してどうする」


「つ、妻……」



 紅葉はその言葉を繰り返し、おずおずと顔を上げた。



「じゃあ、アタシとの婚約は、そのままなんだね」



 貞春が頷くと、ようやく紅葉の肩の力が抜けた。

 胸元に手を添えて息をつき、それから隣の鯉丸へ目を向ける。



「……大丈夫?」



 その一言に、鯉丸は返事を詰まらせた。


 昨夜まで父と呼んでいた人が、自分に頭を下げた。継ぐはずだった家も、思い描いていた行く末も、一夜で変わってしまった。

 大丈夫かと問われれば、そうではなかった。


 だが、それを口にするのはためらわれた。



「大丈夫だ。爺が言うには、拙に仕込んだのは京の作法だそうだ。教わったとおりにしておれば、恥をかくことはあるまい」


「そうじゃなくて」



 紅葉は笑わなかった。



「何を聞いてるか、わかるでしょ?」



 鯉丸は目をそらした。

 膝の上で握っていた手をほどき、そのまま立ち上がる。



「琳照(りんしょう)寺へ行ってまいります」


「琳照寺へ?宗玄和尚は、鯉丸様の渡海の支度で留守にしておりますが」



 貞春の問いに、鯉丸は少し間を置いた。



「……母上に、別れの挨拶をせねば。海を渡れば、気軽には参れなくなりますから」



 一礼して、書斎を後にする。

 部屋を出るまで、鯉丸は紅葉の方を見ることはできなかった。






     ◇◇◇






「おお、須佐の若様ではありませんか!」



 琳照寺への道すがら、鯉丸は顔見知りの百姓に声をかけられた。

 身構えた供の者を片手で制し、馬を止める。



「久しいな。釣りの帰りか?」


「ええ。田の手入れが思ったより早く済んだもんで、孫たちの腹の足しになるものでも釣れればと」


「釣果はどうだ」


「アユが三匹。上々ですな」


「ほう。それはよかった」



 鯉丸が笑うと、百姓も日に焼けた顔をほころばせた。

 だが、すぐには立ち去らず、何か言いたげに手元の魚籠へ目を落とす。



「あの……若様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「水路を延ばすお話は、どうなりましたかね。そろそろ取りかかれるものかと、皆で話しておりまして」



 鯉丸は言葉に詰まった。


 須佐本家の領内には、水を引けず耕すことのできない土地が点在していた。そこへ水路を通し、新たな田を開く。そんな計画が持ち上がってはいたものの、費用の工面がつかず、手をつけられずにいた。



「……すまん。まだ、銭の都合がつかんのだ」


「ああ、そうでしたか」



 百姓の笑みが薄れた。

 それも一瞬で、すぐに取り繕うように頭を下げる。



「いや、お引き止めして申し訳ありません。どうぞ、お気をつけて」



 鯉丸が何か言うより早く、百姓は道を譲った。

 魚籠を提げてトボトボと遠ざかる背を、鯉丸は馬上から見送った。


 いつまで待てばよいのか。

 そう聞かれなかったことが、かえって胸に残った。


 須佐家に余裕などない。それは鯉丸にもわかっていた。

 奉公人は必要なだけ残すのが精いっぱいで、城に詰める兵はわずか三十。台所を切り盛りする者も三人しかおらず、紅葉まで袖をまくって働いている。


 それでも近隣の領主に攻め込まれずにいるのは、百の兵を動かせる因幡家と、水軍を擁する武御家が控えているからだ。

 どちらか一方でも離反すれば、本家だけでは支えきれない。


 京へ上り、将軍家とのつながりを確かなものにする。それが須佐家のためになるという理屈は、わかる。


 だが、旅支度にも、供を連れて海を渡るにも、銭は要る。

 その銭は、須佐家が負担することになる。



「……本当に、これでいいのか?」



 その銭を、水路に回すことはできぬのか。

 将来のためだと言って、今、目の前で困っている者を待たせてよいのか。


 その答えを、鯉丸は未だ出せずにいた。






     ◇◇◇






 琳照寺。

 宗玄が住職を務めるこの寺の裏手に、鯉丸の母は眠っていた。


 貴人の墓にしては小さな、飾り気のない五輪塔だった。


 供の者を寺に待たせ、鯉丸はひとり墓前に膝をついた。花を供え、静かに手を合わせる。



「……母上。貴女のことを、聞きました」



 鳥の声も、木々の葉擦れも聞こえなかった。

 静まり返った墓所に、鯉丸の声だけが落ちた。



「父上を亡くされた悲しみも癒えぬうちに、縁もゆかりもない土地へ逃れ、病を抱えながら拙を育ててくださった。どれほど心細く、苦しい日々であったことか……」



 言葉を切り、墓石を見つめる。

 尋ねたいことは、いくつもあった。けれど、その答えを母の声で聞くことは、もう叶わない。


 母が生きていたなら、将軍家へ戻ることを喜んだだろうか。

 それとも、この地にとどまれと言っただろうか。


 鯉丸は小さく頭を振った。

 答えのない問いを重ねても、支度が止まるわけではない。


 すでに、事は動いている。

 元服すら済ませていない自分に、今さら何を変えられるというのか。


 流されていくしかないのだ。

 これまでと、同じように。


 しばらくして、鯉丸は顔を上げた。



「これより、拙は京へ向かいます。祖父にして現将軍であらせられる、為真長義様のもとで、元服することとなりました」



 口にしてみても、どこか他人の身の上を語っているようだった。

 鯉丸はひとつ息をつき、言葉を継いだ。



「どうか、彼岸よりお見守りください」



 深く頭を下げ、立ち上がる。

 背を向けかけて、もう一度だけ五輪塔を見た。まだ何か告げたい気がしたが、言葉にはならなかった。


 供の者たちが待つ寺へと歩き出す。

 その足取りは、重かった。

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