第2話 須佐家の鬼灯山城
淡海国鬼灯山城。
於能碁洲北端に位置するこの城は、於能碁洲と畿京洲の間にある僅か一里の幅の海峡を一望できる海防の重要拠点である。
かつては三十を超える曲輪を擁する堅城であったこの城だが、代々この城を預かってきた須佐家の衰退とともに、曲輪はひとつ、またひとつと打ち捨てられていき、今なお用を成すのは、わずか三つ。かつての威容は、見る影もなかった。
「あにさまー!おかえりなさいませー!」
そんな城に帰って来た鯉丸を出迎えたのは、今年で七歳になった義理の弟だった。
タカを使用人に任せた鯉丸は、年端も行かない弟の様子に笑みを浮かべた。
「ただいま、卵丸。紅葉はいるか?」
「はい!あねうえはだいどころにおります!」
「台所か。まだ間に合うかな」
そちらへ足を向けかけた鯉丸の腰に、卵丸がひしと抱きついた。
「あにさま!らんはあそんでほしいです!」
「わかった、わかった。紅葉に獲物を渡したら遊んでやるから、いい子で待ってなさい」
「はい!おくでおまちしております!」
返事をするなり、卵丸はぱっと手を離した。忙しない足音を響かせ、奥の部屋へと駆けていく。鯉丸はしばしその背を見送ってから、ウサギを抱え直した。狩装束のまま庭を回り、台所へ向かう。
「紅葉。今日の飯に、こいつを――」
「こら!そんな汚れた格好で台所に入らない!」
敷居をまたごうとしたところで、ぴしゃりと声が飛んだ。
鯉丸が慌てて片足を引っ込めると、台所から紅葉が顔を出した。
身長は五尺二寸ほどで、年齢は鯉丸とそう変わらない。長く艶のある黒髪に、目鼻立ちのはっきりした顔の少女。その目が鯉丸の狩装束から手元の獲物へと移り、呆れたように細められた。
「また宗玄さまの習い事をすっぽかしたの?」
「もう習うことなどないからな」
鯉丸は不機嫌そうにそっぽを向いた。
「礼儀作法は身につけた。兵法はそらで言える。弓も槍も剣も、もはや当家に相手となる者はおらん。このうえ何を学べというのだ」
「うーん……歌とか?」
「……侍に必要か、それは」
今度は鯉丸が目を細めた。
紅葉は困ったように笑い、頭を掻いた。
「アタシみたいな田舎の小さな家の姫には、よくわからないけどさ。でも、まだ何かあるんじゃないの?」
「そもそも、単独では百の兵も集められんのに、兵法を学んでも意味ないと思うぞ」
「身も蓋もないこと言わないでよ!元服したら須佐家の跡継ぎになって、アタシの旦那様にもなるんでしょ?だったら、もっとしっかりしてもらわないと困ります!」
鯉丸はひとつ息をつくと、手にしたウサギを差し出した。
「まあいい。コイツを頼む」
「はいはい――って、重っ!ずいぶんな大物だねえ!」
受け取った紅葉が、両手で獲物を抱え直す。
その反応に、鯉丸はたちまち相好を崩した。
「そうだろう、そうだろう。鍋で頼む」
「だめ。今日は武御様のところから、新鮮なニシンが届いてるの。鍋はニシン。このウサギはおかずとして炭焼きにします」
取りつく島もない返事に、鯉丸は口をへの字に曲げた。
紅葉の腕に収まった獲物へ、名残惜しげに目を落とす。
「むう……まあいい。良きに計らってくれ」
「はい、任されました」
紅葉はにこりと笑うと、獲物を抱えて台所へ引き返した。
鯉丸も庭から屋内へ上がろうとした、そのときだった。
廊下の奥から、幾人もの足音が重なって聞こえてきた。何気なく目を向けた鯉丸は、「げっ」と小さく呻いた。
正装に身を包んだ一団が、こちらへ歩いてくる。
その先頭に立つ男は、肩で風を切るような足取りだった。背丈は五尺七寸ほど。四十をいくらか過ぎた顔に、値踏みするような目が光っている。
狩装束の鯉丸を認めると、その口元に、取ってつけたような笑みが浮かんだ。
「これはこれは、次期当主様ではござらんか。しばらくお目にかかりませなんだが、お元気そうで何よりですな」
男の名は、因幡光春。
須佐家当主の実弟にして、須佐家の所領の三分の一を支配する重臣である。
鯉丸は姿勢を正した。
「因幡殿もご壮健で何より。当家が頼みとするのは、其方と武御殿でございますからな」
殊勝な挨拶に、光春はふっと鼻を鳴らした。続いて、堪えきれぬとでもいうように吹き出す。
背後の因幡家の者たちも、つられて笑い声を上げた。
「因幡殿。笑うのは失礼でござろう」
一団の後方から、低い声が差し挟まれた。
声の主は、五尺九寸ほどの上背を持つ男だった。年の頃は三十代の終わりほど。日に焼けた浅黒い顔に立派な口ひげを蓄え、笑い続ける者たちへ険しい目を向けている。
武御幸綱。
武御水軍と呼ばれる有力な水軍を率いる、須佐家の家臣であった。
「いや、失敬、失敬。宗玄和尚が手を焼いておると聞いておったのでな。どれほどの暴れん坊に育たれたかと案じておったが、最低限の礼儀は心得ておられるようで安心いたした」
詫びる言葉とは裏腹に、光春の口元にはまだ笑みが残っていた。
鯉丸を見下ろす目にも、次期当主に対する敬意はない。素性も定かでない者が須佐家を継ぐ。そのことへの侮りを、隠そうともしていなかった。
鯉丸は唇を引き結んだ。
「しかし、頼みと仰せになるのは、まことにそのとおり」
光春は鯉丸の返事を待たず、言葉を継いだ。
「姫君が自ら台所に立たねばならぬほど、須佐の御家は困窮しておる。その上、跡継ぎは兄上の子ではなく、高貴な青い目を持つからというだけで都から連れてこられた、出自の明らかでない若君ときた」
意地の悪い笑みを浮かべながら、光春は続けた。
「立て直すには、御本家と我ら因幡家、そして武御家が、よう力を合わせねばなりませぬ」
そこでひと呼吸置き、鯉丸の顔を覗き込む。
「どうか、そのことをお忘れなきよう」
光春は満足げに笑うと、供の者たちを引き連れ、玄関へと歩み去った。
幸綱は渋い顔でその背を見やり、鯉丸に向き直って一礼した。それから、足早に一団の後を追った。
「………始まる前から詰んでいるのに、どうしろというのだ………」
足音が遠ざかった廊下で、鯉丸は呟いた。
誰に聞かせるでもない言葉を残し、しばらく、その場を動かなかった。
◇◇◇
夕餉の後、鯉丸は義父の書斎へ呼ばれた。
部屋には、すでに宗玄が控えていた。その隣に座す義父の前へ進み、鯉丸は正座した。
「此度、呼ばれた訳はわかるか。鯉丸」
須佐貞春。
五十を目前にした義父の面差しには、幾多の難局をくぐり抜けてきた武将の厳しさがある。鯉丸はその眼差しにわずかに気圧されながらも、顔を上げた。
「習い事を放り出し、鷹狩に興じたことをお叱りになるのでございましょう」
悪びれる様子もない答えに、貞春は小さく息をついた。
「表向きは、そういうことにしておる。誰ぞに尋ねられたなら、そのように答えよ」
鯉丸は眉を寄せた。
てっきり宗玄と二人がかりで説教をするものと思っていたが、どうも様子が違う。
貞春は声を落とした。
「当家が本来、いかなる役目を担っておったか。覚えておるな?」
「幕府の奉行衆にございます」
「左様。十五年ほど前まで、儂は幕府政所の一奉行として、幕府の財務を預かっておった」
鯉丸は黙って頷いた。
「だが、将軍であらせられた天照院晴義公が暗殺され、都は大乱に陥った。儂はその混乱を逃れ、本拠であるこの地へ退いたのだ」
「その折に、拙の母である葵の方をお連れになったのでしょう。爺から耳にたこができるほど聞かされております」
宗玄が顔をしかめた。
貞春は咎めず、しばし鯉丸を見つめていた。やがて、膝の上で手を組み直した。
「その母御のことだがな」
鯉丸は義父の次の言葉を待った。
「葵の方というのは、まことの名ではない」
「……は?」
「身を隠すための、仮の名だ」
鯉丸は宗玄を見た。
いつもなら口を挟んでくる老人が、今はただ、固く口を結んでいる。
「では……母上は、何者なのです?」
貞春はゆっくりと背筋を伸ばした。
「秋津宮彩子内親王殿下。今上皇の長女にして、天照院様の正室であられた御方よ」
鯉丸は義父を見つめたまま、動かなかった。
聞いた名と、病気でほとんどを床の上で過ごしていた母の面影が結びつかない。
今上皇の長女。
かつての将軍の正室。
その言葉の意味をようやく掴みかけたとき、貞春が膝を進めた。
傍らで、宗玄も居住まいを正す。
「鯉丸様」
義父の口から出た呼びかけに、鯉丸は息を呑んだ。
「貴方様こそ、天照院様の忘れ形見にして、今上皇の血を引く為真家の嫡子」
貞春は畳に両手をついた。
「次の将軍となられるべき御方にございます」
宗玄もまた、深く頭を垂れた。
鯉丸は何も言えず、二人の伏せた頭を見つめていた。




